観音経を読んで-5

〇煩悩の火を消し愛欲の海を泳ぐ

*七難  火難・水難・羅刹難・刀杖難・鬼難・枷鎖難・怨賊難。の七つです。

このうち火難と水難が出て来ます。火難を除く観音の変化身とされている秋葉三尺坊は火伏の大御所として有名です。この三尺坊のご利益とはいうのは、人間の煩悩を消すことにあります。
善行に害毒をうながす三つの煩悩を三毒と言います。
「三毒」とは貧・瞋・痴(とん・じん・ち)がこれにあたります。貧とはむさぼり。瞋とは怒り。痴とは知恵の曇り。この三毒の火を消すことが出来れば充実した毎日が送れるとする教えです。
観音経でいう火難とは、瞋であり心火です。釈尊いわく「瞋恚は功徳の林を焼く」と言っています。
水難とは愛欲の難、愛欲の大海に溺れるのは人間である限り誰にでもあります。誰にでもあるからといって溺れてはならないのです。
*七難とその正体の受け止め方
「魔がさした」という言葉があります。心の迷いから生じる悩み苦しみ、食人鬼といってもいいような、どうしようもない心の悩みこれが「羅刹鬼」です。
「仮使黒風其の船航を吹いて」とは心の中の暴風のことです。仏性を求めて人生の大海を泳ぐ我々の前に突然の災害が訪れた時、どうしようもない心の悩みに負けてしまう。これが羅刹鬼の国に飄堕するということです。
人生で一番難しいのは、自分に勝つことです。人に勝つことなどは簡単なことであります。負けそうになっては這い上がり、また負けそうになっては這い上がる。我々誰でもがそうして生きているのです。
我々は本当に自由なのでしょうか、何一つ束縛もないだろうか、何一つとらわれもないだろうか?
人間の持つ所有欲は自由を束縛する。土地を手に入れれば土地に縛られ、家を買えば家に縛られる。地位を手に入れれば地位に縛られ、金を手に入れれば金に縛られる。命があれば命に縛られる。二重にも三重にも縛られ、身動きの取れない生活を送る。これで本当の自由と言えるだろうか。
人間は一切の所有権を捨てることは出来ない。物を捨てることは出来ても心の所有までも捨てることは出来ない。金がなければないなりの束縛、地位も名誉もなければ、ないための束縛。
我欲と言ってもいい。我欲の衣を七重八重に着込んだ我々の生は不自由この上ない。この衣を脱がない限り本当の自分、宇宙の真理真実に出会うことは出来ない。
次回に続く

観音経を読んでー4

*一心称名。・・・・一心に観世音菩薩の名を唱える。

釈迦入滅後、弥勒菩薩がこの世に現れるまで五十六億七千万年という気の遠くなるような無仏の時代に、庶民を救済する地蔵菩薩。その活動は六道全てに及びます。
「観世音菩薩普門品」の普門とは、あまねく門を開く、つまり表からでも裏からでも、縦からでも横からでも、どこからでも入れる。どんな悩みにでも、誰の悩みにでも、どこからでも受け付けてくれる。という意味です。

仏に手を合わせるということは、我々が思い描く理想の世界、心理真実、忙しさの為に忘れているもう一人の自分と、仏像を通じて対面することです。
自分が自分で、自分の本物を偶像を通して確認する行為。ということは、お詣りをするとは神仏を通じて自己確認をする世界であると言えます。するとここに自分を叱咤激励し、勇気を持つことができる。だからお詣りは、一心不乱にやるべきであり、一心称名がそこに生きる。
念ずれば通ず、という言葉がありますが、まさしくその通り、ここにお参りの世界があります。

観音経を読んでー3

*音波をキャッチする観音様

「一心称名」一心に声を立てて念ずることである。一心に念ずることにより観音様と一体になれる。
一体になれるということは、無我になることである。他の事は何もない一切の計らいもなく、ただ頭の中は観音様だらけ、といった状態である。
「百千萬億」の庶民がもろもろの苦悩を受けた時、観音菩薩の名を一心に称えたら観音はそれを聞き分けて、皆のその苦しみから解放されるようにするからです。
「南無観世音菩薩」の南無とは「依るべきものに帰る」という意味です。
「観音開き」という言葉がありますが、戸が真ん中から両側に開く方式です。両方に開くと、中は開けっぴろげとなりどこからでも自由に入れます。
仏像を祀る厨子のほとんどは観音開きです。観音様は、開放的な仏さまでであるからです。

*観音様の気配り
心を配ると書いて心配。普通、心配するというと、あれこれと気がかりになる。と言うが、本来の意味は相手の身になって心を配るということです。
*即時即効の現世利益 
世の中には摩訶不思議なことがあるもので、存在していることだけは紛れもない事実です。これを学問や科学で立証できないからと言って、信じようとしない現代人にもう一歩踏み込んで考えてもらいたいことは、一心になることに依って発散するエネルギーの力、精神力を集中した時に起こる不思議な現象、これは今、科学の死角点にあります。
一念岩をも砕く、で、ひたすら一心になる熱意、それに伴う行動はいつの世においても岩おも砕くほどの力を持つ、ということではないでしょうか。

観音経を読んで-2

*観音様と同居する。
多くの在家の人達は、自分の中の観音様に気付いていない。なぜ気が付かないのか、というと宇宙心理の存在を、自我というコロモで七重八重に包み込み、全く見えなくしまっているからである。その分厚い衣をかなぐり捨てて、宇宙と一体感に目覚めるために宗教者は、宗教的修行をする。
では一般的な在家の人々が、どうやって心理に目覚めることができるかといえば、とにかく一生懸命生きることである。それぞれの人生の道を極めたとき、悟りと似た人生の核を手に入れるのである。
つまり、自分に合った一番大切な一筋の道を行じて行く、この精神を保持していくところに本来の命に目覚めることができるのである。と瑞法師は言っています。

*観音様と対面する
「南無観世音菩薩」観音像を拝むと、これは忘れかけていたもう一人の自分、かけがえのない自分と対面する事なのです。
本物の世界と現在の娑婆世界、本物の自分と自我にとじこもる自分、この二つの間の交信を取り持つ電話交換手のようなもの、それが観音様です。
坐禅の坐の字という字は、人が二人土の上に居る。一人の人間が、現在あくせくと生きている人間ならば、もう一人の人間は、あくせく生きながらも、ああもしたい、ああもなりたい、こうもしたいと理想として追求する人間であります。
この二人の人間が土の上に立っている。これが我々人間の姿なのです。
観音様をお詣りするということは、現実に生きていると言う自分が、もう一人の理想としている自分を拝むことです。
観音巡礼というのは、本物の自分を再発見するための旅。自己確認の旅であると言えます。

観音経を読んでー1

「観音経を読む」雲輪 瑞法著より。

まず、お経と言うと線香臭い・坊さんが唱える訳の分からない言葉と思う方が大半でしょう。しかし、お教文とは、人が生きて行く事に対する大切な教えを説いているものなのです。決して無碍に出来ない大切な教えなのです。

「観音経を読む」この著書を読んで自分が感じたことを記載します。
良くお坊さんが読む「妙法蓮華経観世音菩薩普門品第二十五」とは法華経の中の第二十五番目に記載されているお経です。通常は「観音経」と言われている経文です。このお経は人間自覚のための経文であります。

*この世で第一番に難儀、難しいのは、自分自身の限りなく揺れ動く心、どうしようもない、この自分自身との対決で無かろうか。
人間の心とは、常にころころと変化する。だから「こころ」と言うのであろうか。
捉えどころなき、つかみどころなきものである。先刻の自分と、只今の自分、もちろん、一瞬一秒の怠りもなくこの肉体は変化する。が心も又限りなき移ろいさまよいゆくのである。

久し振りの来訪者。

今日正午前、突然の来訪者がありました。以前に何かとアドバイスをさせて頂いた若い男性です。現在は安定した気持ちで仕事に励んでいると聞き安心しました。
何故か何時も気になっていたのですが良かったです。また、お付き合いしていた女性と結婚が決まり、この6月に入籍したと聞き嬉しかったです。(^o^)/
その報告もかねての来訪でした。相談者がハッピーになれると本当に「やってて良かった」と心から嬉しいです。これも役得ですね。(^^)/

自分の寿命(死)を考える。

私は当年取って77才です。これから先何年生きられるか?時々考えます。
皆さんに若いですね('_')などとよく言われます。健康診断は毎年しています。血圧・血糖値・コルステロール等、何も再検査と言われたことはありません。掛かり付けの担当医も首をひねっています。たばこは吸う酒は飲む(毎晩晩酌します)し、おかしいと言っています。
私は入れ歯は一本もありません(毎日食後には歯磨きします)。同年輩の友人達は会えば病気や薬の話が良く出ます。姿勢も後ろから見ると老人姿勢です。私は姿勢には注意しています。まっすぐ立って背筋を伸ばして歩くことを心掛けています。若いと言われる由縁は姿勢にあるのかと思います。
しかし、77才です。あと何年元気でいられるか?考えます。
人間は寿命と言いますが、私は耐用年数だと思っています。人間以外では、どんな物でも耐用年数があります。どんな良いものでも必要とされなければ捨てられたり解体されます。人間だって同じではないかと思っています。この世の中で必要とされ無くなれば耐用年数終了です。その耐用年数が何時になるかが心配です。未だに元気で居られるのは、まだ世の中に必要とされているのかな、と思っています。
自利利他の精神でこれからも皆さんのお役に立ちたいと思っています。
未だに日本全国自家用車で出かけています。今月は新潟県糸魚川まで行く予定です。これからも耐用年数がくるまで頑張りまーす。(^^)/

今日は3人の相談者が見えました。

今日は三人の来訪者がありました。皆さん電話での予約です。
10時からの方は就職先の問題で来訪し1時間半程で終了。午後1時には市内の奥様が来訪、娘さんの新築工事の図面を持参して方位の検証をしました。このご婦人の長女の新築時も方位の相談に見えました。家に帰ってゆっくり検証できるようにと入手困難な方位表をコピーして差し上げました。また、娘さんとご主人の相性判断。相談者のご主人の病気に関する相談。
3人目はいろいろ家庭内の相談で17時30分頃で終了しました。一日に3人の相談者がありますと結構忙しいです。(^^)/

感心なお母さん。

先日相談に来訪された奥さんは感心なお母さんです。なかなか誰にも出来そうもないことをしています。
自分の従兄弟の子を、乳飲み子からこの春高校を卒業して、現在も自分の子供が3人居るのに面倒を見ています。実父は東京に居るそうですが、高校を卒業して父親と住む予定で東京に行ったのですが1か月で帰ってきてしまったとの事です。
やっぱり育ての親が良いのでしょうね。「大変なんですよ」と言いながら笑顔で話すこのお母さんはビックママです。年齢は42才のお母さんです。偉いですね。
たとえ血の繋がりはあっても出来るものではありません。お母さんの鏡ですね。

[ 「人情」

今日、菜園に行くと近所の小母さんが犬の散歩をしていました。自分の菜園に立ち寄って野菜談義をしてお帰りになりました。しばらくすると又来園され、手には冷えたお茶・リポビタン・チョコレートを持って差し入れに来てくれました。嬉しいですね。丁寧にお礼を言って頂戴しました。家内と「なかなか出来ることじゃないね」と話しました。
「人情」古い言葉かもしれませんが脈々と生きていました。帰りに菜園で収穫したキャベツを届け丁寧にお礼を言って帰ってきました。気持ちいいですね(^o^)/

転職先の方位。

今日、介護士をしている方が来訪しました。現在の勤務先を辞めて別のホームへ転職したいとの相談です。候補のホームのある場所は、自分にとって良い方角なのでしょうか?という相談でした。この方は六白金星生れ星の人で、今年の吉方位は南東・西・西北です。丁度候補のホームは西北に位置していました。方位的には何の問題もありません。近じか見学に行くそうです。きっと気に入るのではないかと思っています。

老人のお土産。

先日来訪された独居老人の方が昨日来訪されました。来訪前に連絡をくれたのですが電話の声は今迄になく元気そうで弾んでいました。
栃木県那須にあるご主人の墓参りに行って来たそうで、お土産を頂きました。墓参りの帰りには住職が那須塩原駅まで送ってくれたそうです。喜んでいました。
落ち込んだ時には墓参りに行くとスッキリしますから、また時々行くといいですよ。と言ってあげました。本当に人が変わったように元気になられました。これも功徳ですね。

因果応報。

皆さんはこの言葉を知っていますか?

因果応報

(仏) 前世における行為の結果として現在における幸不幸があり、現世における行為の結果として来世における幸不幸が生じること。

時代が変わっても人間の本質は変わていません。よく「時代が違う」と言う言葉を聞きますが、人間そのものは昔と一切変わっていません。何回か書きましたが、あなたは現代に生きているということは両親・ご先祖があってのことです。
あなたを十代遡ると1024人のご先祖様が居るのです。その人達のDNAをあなたは引き継いでいるのです。

今日もまた来訪。

先日御出でになった近くの独居老人のご婦人が今朝御出でになりました。この3日間誰とも話をしていないとの事で寂しくて来られたそうです。
このような問題を市や県はもっと対策を真剣に考えてはどうでしょうか?各地内にこのような独居老人が集えるような場所を作るべきです。皆さんはどのようにお考えでしょうか。

近所の独居老人の来訪。

近所の市営アパートにお住いの70才になるご婦人が突然来訪しました。以前に1回
近所の知り合いの夫人と一緒に来られたことがありました。家内が公園を散歩中に知り合いになったそうです。お話を聞くと、1月に主人を亡くしその後歩行中に足を骨折し、やっと歩けるようになったとの事でした。自宅療養中にアパートの部屋から公園を眺めていたそうです。一人で毎日家の中でテレビを見ながら過ごしていたそうですが、話し相手もなく、いろいろ考えてしまって鬱病になりそうで誰かと話がしたいと急に家内の事を思い出して来られたそうです。
そんな寂しい時は遠慮せずに何時でもお出でくださいと言ってあげると、突然テーブルにうつ伏し号泣してしまいました。優しい言葉を他人が掛けてくれたことに突然込みあげてきたそうです。落ち着いてからいろいろお話を聞かせて頂きました。栃木県出身で近くに誰も知り合いは居ないし、主人に亡くなられて、急に一人になってしまった寂しさに耐えられなくなってしまったそうです。
今、世の中が抱えている独居老人問題です。良くマスコミで報道されています独居老人の忘れられた「死」です。この問題を地で行くような例です。
その後、私の菜園に案内しキャベツや三つ葉、キヌサヤなどを収穫し持たせてあげました。菜園に着くと「空気が美味しく気分が晴れる」と言って元気を取り戻したような感じです。帰りに「また来てもいいですか?」と言ったので、何時でも寂しくなったらおいでなさい。と言ってあげました。嬉しそうに野菜を持ってお帰りになりました。
これでまた、一人救うことができたような気持ちになりました。この老人問題は周辺の人皆で考えなくてはならない問題です。

来訪予約が入りました。

東京からの来訪者です。5月18日の午前10時頃に御出になります。
又、楽しい話とアドバイスができればと思っています。

感心な親御さん。

4年前に相談を受けた子供さんと親御さんが居ります。このお母さんは相談後、週一子供さんの状況を4年間連絡くれました。このようなお母さんはほとんどいません。
現在子供さんは高卒後介護専門学校に進み、今年卒業して養護施設に就職しました。今でもお母さんは子供さんの状況を知らせてくれます。本当に感心なお母さんです。
このような親御さんでしたら、子供さん共々悪い状況になるはずがありません。
殆どの方が相談後、連絡をくれることはありません。相談を受けたからは私もその後の事が気になっています。せめて電話の一本でも欲しいものです。

心を亡くす。

仕事仲間の研究会が湯西川温泉で開催されました。ロビーでコーヒーを飲みながらの時間に皆さん忙しい話をされています。自分から奥さんに何処かへ行こうか?と誘ったことがない友人が居ます。忙しくてその気になれないとの話でしたので、話をさせて頂きました。「忙しい」という字は「心を亡くす」と書きます。忙しいと人間本来の心を亡くします。イライラしたりクシャクシャしたりして自分の心が定まらないのです。ですから、たまには現実から離れて、ゆっくりした時間の中で本来の自分を見つめ直すことも大切ではないか。と話しました。本人も納得した様子で、今度そのような時間を作りたいと言っていました。
人間だれしも日頃忙しいですが、時間を作ってゆったりした気分で自分を見つめ直す事も大切ではないでしょうか。

「感」

自分の親しい人々の状況について私の感が良く当たります。数日前のお世話になった先輩、家を訪ねたのですが留守でしたが何となく入院しているのではないかと思い家族の方に電話したところ、やはり入院していました。早速お見舞いに行きましたが本人は誰にも言わずにいたので見舞客は私が一番乗りでした。又、今日はマミーが何処かへ行きたいと言うので車を当てもなく走らせました。数日前から行きたいと思っていた兄の墓参りをと思い、急遽埼玉県の飯能市に向かいました。霊園に着いたのが11時半、丁度2時間です。無事お花と線香を手向けて墓参りを終えて兄の自宅へ向かいましたが留守でした。何となく、もしかしたら義理姉は入院しているのではないかと思い、兄の娘に電話したところ案の定入院していました。早速病院の場所を聞き見舞って来ました。というように何んとなくの感が当たります。自分でもビックリしています。

 

嬉しい報告がありました。

子供のお母さんから電話がありました。就職が決まり、今月から勤務しているそうです。今日から早番で家を五時半に出たそうです。六時からの勤務で毎日楽しく仕事をしているそうで安心しました。本人も仕事が楽しく、老人との接触が苦にならなく楽しいようです。このまま順調に進んでくれることを願っています。

自分の問題の解決法は。

私の師匠の残した言葉(法華経の知恵)にある教えを記載します。
仏教のほとんどの宗派では、お経文をあげる前に次のような開経偈(かいきょうげ)を読み上げます。「無上甚深微妙の法は、百千萬劫にも遭遇たてまつること難し。我今見聞し受持することを得たり。願わくは如来の第一義を解せん」
これは大変すばらしいことです。「無上甚深微妙の法は、百千萬劫にも遭遇たてまつること難し」と言って、人間は何千回、何万回も生まれ変わって、ようやくこの度、仏様と巡り会うことができたのだという事です。お経、つまり教えを見たり聞いたりすることが、今やっとできるようになったということです。
「如来の第一義を解せん」の如来とはお釈迦様の事です。「第一義を解せん」とは、この世の中の仕組み、つまりお経のことです。それを身につけたいと願うことなのです。だから、日々お経をあげていると、一つ一つ自分のものになっていきます。するとお寺さんの説法などを聞いたとき「これは、お経のこの所を言っているのだな」と言うようにわかってきて、自分でお経を解釈出来るようになってきます。すると、お釈迦様の教えに照らして、なんでも善意に受け取ることができます。
人間は、目の前に起こったこと、いやな事でもなんでも「これは私にとって、丁度いいんだ」と受け止めるのが正解です。そのような受け止め方とは、「善意」ですから、結果として素晴らしいものが出て来ます。
何か問題が起こっても「これは自分に相応しい問題なんだ。よし、どうやって解決してやろうか」という前向きのの姿勢、「善意」に受け止めるとなんでも解決出来るのです。なぜなら、あなたの人生ですから、あなたに解決できる問題しか出て来ませんもの。皆さんいいですか。人生には自分で解決できない問題は決して現れません。
「困ったなー」と思えば、困ったことにしかなりません。人間とは、そういうものなのです。それがお経の中にあるこの世の仕組み、「第一義」、つまり「空」なのです。

早くも春の彼岸が

今年も、もう春の彼岸が近付いてきました。天気に恵まれるといいですね。
次女も来週帰省すると連絡がありました。
この季節(4月)になると新入学や新人の入社式が始まるようです。一番注意しなくてはならない時期ですが、入学式後や入社式後の研修が終了した時期に多いのが登校拒否・出社拒否の問題です。社会人は、その後5月病という事に悩む人が出て来ます。あまり考えず、悩まないで目標をしっかり持って頑張りましょう。
自分の人生は自分で開いてゆきましょう。悩みがあったらどうぞ遠慮なくご一報ください。一緒に考えましょう。

今日も来訪者がありました。

今日の来訪者は、午前10時半に来られました。奥様の体調の事です。
7年前に奥様は膀胱炎を患ったそうです。今回も同じ病名ですが、なかなか良くならなく毎日病院で点滴をしている状態だそうです。
検査をしたり写真を撮ったりしてみても何の異常も発見されないという事で、原因がわからないとの事でした。
ご婦人の下の病気は水子の影響を受けやすい話をしてあげました。水子はいろいろな弊害を起こしやすいので、もし水子が居られるようでしたらしっかりご供養されるようにと話してあげました。ご主人は若干の不安を残しながらも早速ご供養をしてみます、と言ってお帰りになりました。
ご供養は出来れば秩父の紫雲山 地蔵寺に行かれるのがベストです。

ストレスが溜ります。

家内が一昨年11月に意識を失い又5月にも、そして昨年の11月にも倒れ救急車で病院へ運ばれました。原因は14年前に患ったクモ膜下出血の後遺症と診断されました。14年も経ってから今迄後遺症も何事もなかったのですが起こってしまいました。
発作を抑える薬を処方されたのですが6か月おきに発作が起こっています。昨年11月の時点で医者にそのことを話したところ薬を増やしましょうと言われ、それはお断りして何とかならないのでしょうかと相談しましたら、市内の専門病院を紹介されました。現在そこに月1日通っています。処方されている薬は同じです。現在様子を見ている状況です。最初の倒れてから痴ほう症の検査にも連れて行きました。結果は初期のアルツハイマー性の痴呆症との診断で、まだ薬を飲用する程ではないとの事でした。しかし、倒れて以来食事の用意はするものの、おかずを作ろうとする気はないようで私が漬物、煮物や焼き物全てを作っている状況です。なるべく家内にさせようと思いますが本人はやる気がないようです。買い物も殆ど一緒には行きますが、家で足りないものは分かっていません。それでも何ともない時は平常通りで生活しています。このような状況ですのでストレスが溜る一方です。何故かお金のことに関してはしっかりしています。困ったものです。病気なのでと思ってはいますがたまには頭に来ます。皆さんの中で同じような経験をしている方が居りましたら感想を聞かせてください。

怪我や事故を起こしやすい日。

午後来訪者があり話を聞きました。何んということはないのですが、車の事故をご夫婦で同じ日に起こしてしまったそうです。幸い軽い事故だったので良かったのですが・・と言っていました。
連休明けの13日(一白水星)だったそうです。事故やケガを起こしやすい日があります。一白水星・六白金星・八白土星の日。自分の星が北(困難宮)・北東(鬼門)の方位にある時は怪我や事故が発生しやすいと言われています。カレンダーを見て毎日確認して行動してください。もちろん今年の五黄土星(北)・四緑木星(南)は誰でもご注意を。五黄殺・暗剣殺の方位です。
不思議に該当する事が多いです。

弱肉強食の現実。

我が家には茶の間の目の前(1m程度)にメジロのためのミカンを置くところがあります。又その先にはスズメやシジュウカラなどのエサ台を設置しています。
毎日ツガイで来るメジロは自然で綺麗で可愛いです。私がミカンを置くと間髪を入れず直ぐ啄ばみに来ます。ところがこの数日間メジロが来ません。いつもメジロやスズメがエサ台に来ると必ずヒヨドリが飛んできて小鳥を攻撃していました。自分のテリトリーと決めて他の鳥が来ると追い出そうとしているようです。それでメジロは来なくなったと思っていましたが、たまたま庭に出てみたところ踏み石の側にメジロの頭が落ちているのを発見しました。頭は直ぐに木の下え埋めてあげましたが、これでメジロが来ない理由がわかりました。ツガイのどちらかがヒヨドリの犠牲になったのです。可哀そうなことをしました。そして自然界における弱肉強食を目の当りにしてショックを受けました。
人間界でも色々な面で弱肉強食のシーンがありますが、目につかないので感じることは少ないと思いますが、あまりいい感じはしませんね。互いに相手を尊敬しつつ一緒に生きたいものです。

方位除け。

2月6日(火)晴れ 友引 三碧木星  柴又帝釈天参拝。

恒例の柴又帝釈天参拝に行って来ました。今回は自分の九星が北方に位置するので方位除けをお願いしました。本堂にて方位除けをして頂きお札を頂いてきました。これで今年も無事過ごせそうな気がします。今日は暖かでよい日でした。

幸せのために 某食品会社の会長の言葉。

「幸せのために」という話を読みました。食品会社の会長の話です。
会社経営の大切なことは「フアンづくり」です。お客様ではなく「フアン」、日本語で信者とも言います。
「儲」かるという字は信者と書きますから、会社が儲けたかったら信者を作らなければいけない。
たくさんの信者が居たら会社は安泰です。では、どうしたら信者になってくれるのか、これを何時も社員に考えさせています。
それにはまず、尊敬される会社にならなくてはいけません。ではどうするか。そもそも倒産したら当然なんにもなりませんから、いつでも良い状態で永続しなくてはなりません。社員教育をして、社員一人一人が世の中の為になるような行動をしなくてはなりません。まずは会社が美しくなければ誰も尊敬しないでしょう。
だからまずは掃除です。業者に頼んで綺麗になっているのでは、誰も偉いとは思ってくれません。自分達でやらねば意味がない。
経営も同じです。単に儲ければよいのではなく、もう少し哲学的な経営論を持つことです。有名な松下幸之助さんや京セラの稲盛和夫さんは若いころ肺結核を患っています。若いころに生死の問題と向き合うことはとても大事なことだけれどもなかなかそれは出来ません。しかし教育の根本はやはりその辺にあるのだと思います。
昔の教育は、どう生きるかとか人生はたった一度とか、道徳にかなり力を入れられていましたが、今はあまり教えられていないのでしょう。知識とかスキルを教えるのが教育だと勘違いしている。
会社の経営も同じです。会社は利益を上げるのが目的と思っている人がずいぶんいますが、全く違います。
私は、人間の営みのすべては幸せのためにあるという結論を持っています。勉強会を開く、学校を作る、お寺をつくる、会社を作って商売をする、そんな人間の営みは全て幸せのためにやっているのです。皆が幸せを求めている。
にもかかわらず人間の営みの最大のものと言われる経済活動の中で、倒産があり、首きりがあり、移転があり、いろいろなトラブルが起きて不幸な人がたくさん生み出されているというのは一体どういうことなのか。
ですからこの会社は、たとえ大きくなっても上場はしないと決めました。上場しなくても、みんなが幸せになれる会社をつくれば、それでいいのです。
会社は「利他」をしなければ上手くいきません。他人のため、地域のため、世の中のためにつくしていくことです。
社員の幸せを通じて社会に貢献していくことが、企業のあるべき姿だと考えています。
途中割愛してありますが、経営者としての心得を再考する言葉でした。

住職の言葉。実れば実るほど・・・

大慈院住職  戸田実山 さんの言葉より

「実れば実るほど頭を垂れる稲穂かな」
稲穂は実れば実るほど頭を垂れるものなのだ。人間も実れば実るほど、偉くなればなるほど頭を垂れなくてはならない。ところが近頃は大企業の偉い方や、偉い政治家がテレビカメラの前で何度も何度も頭を下げさせられている姿が映し出されています。あれは実った稲穂が頭を垂れているのとは大違い、一体誰に誰に向かって下げられている頭なのでしょう。多分、いつの間にか自分の力を過信し、俺は偉いんだ。と思い違いをしてしまう。上から物を言うようになり、そのうち人を見下し、実り過ぎてジュクジュクに熟れた柿のようになって、地面に落ちて泥まみれしまう。
一代で世界に冠たる会社を立ち上げた偉大な起業家も、いつの間にか世界から消えてしまう。これは、政治家や実業家だけでなく一般人・僧侶も特に気を付けなければならない事柄なのだと思います。今時の若い僧侶は、昔の老練謙虚な僧侶程でないにしても、俺たちは別だ(何が別なのか解かりませんが)、という少し間違った優越感が時たま頭を出し世間の顰蹙を買う。
今こそ「実れば実るほど頭を垂れる稲穂かな」の事を心掛けたいものです。と言っています。
私もいつも思います、子供のいじめによる自殺。学校の対応に対していつも思うことは、先生自身の自分の身を守るために「知らなかった」という言葉です。そして現場の先生を統括する教育委員会の偉そうな態度です。追及されると現状を認めテレビの画面で頭を下げて謝る。何時もこの状況です。何度テレビで見たことでしょう。
昔から、誤って済むのなら警察はいらない。という言葉があります。もう一度考え直さなければならないことです。
以前に学校の先生がお見えになり、荒れた自分の子供たちの教室をどうしたらよいでしょうか?と相談されたことがあります。私が先生に質問しました、教育とは何ですか?、授業とは何ですか?先生は答えられませんでした。
その意味を話してあげましたが、教育者である先生がこれでは困りますね。

賢者の言葉。  利他という心で帆を揚げる。

*利他という心で帆を上げる    稲盛和夫さん・五木寛之さんの対談の言葉。

 稲盛・・・利他という心で帆を揚げておけば必ず他力の風を受けられる。他力の風を受けて生きる。他力を受けるためには自分で帆を揚げなくてはいけない。その帆を揚げる作業とは何かというと、それは自分の心をきれいにして、利己まみれの心ではなく、人様の為に何かしてあげようという美しい優しい思いやりの心にすること。つまり利他の心を持つという事です。利他という心で帆を揚げておけば必ず他力の風を受けられるのです。
運命というのは心によって変えられると思っているのです。その心が信念まで高まったものであれば、それによって運命は変えられる。
五木・・・「ここは独力で頑張ろうと、何とかしよう」という気持ちになった時に、後ろから他力が肩を押してくれるんですよ。だから他力は自分の母なのだと、僕はいつも言っているのです。
稲盛・・・豊かな情操というものは、心優しい心から生まれてくる。運命を変えてゆくというのは、他力の風を受ける帆を揚げて、仏の力、自然の力、たくさんの人の力を受けることではないだろうか。
天地自然の神様に感謝という気持ちがない人は実業界では成功していない。
五木・・・「お陰様です」「自然万物、世間皆様方のおかげで何とか儲けさせてもらっています」「ありがたいことです」・・・・こういうお陰様でという気持ちを持つことが大切でしょう。

禅語  帰家穏座(きかおんざ)

*帰家穏坐(きかおんざ)     邪心の無い心に帰る

 家に帰ってホットする。穏やかな気分になるという意味ですが、禅的に解釈すれば悟りの世界を言ったものです。
無心、悟りの頂点。本来持っている純真無垢な精神性、清らかな真っ白な、とでもいう赤ん坊のような邪心の無い心に帰るという事です。
諸者(住職)は言っています。最近特に間違っていると感じているのは、それは、おじいさん、おばあさんの葬儀に孫を連れてこない親が居るという事です。理由を聞きますと「塾があるから」「学校を一日休むと、もうついてゆけなくなる」いうのです。今や家で家族が看取るという事がほとんどなくなっている環境で、老・病・死というものを現実から遠ざけています。
せめて亡くなった葬儀にだけは、人の親として見せてあげて欲しいのです。
人間教育は、学校の勉強だけでは出来ないのです。人生をちゃんと歩めなければ人間ではないのです。諸々の取り返しのつかない事件がそのことを物語っています。悟りの世界は分からなくても、家に帰ってリラックスするという事は理解できると思います。しかし、そういう環境が無くなってしまった時、子供が親を殺したり、親が子供を殺したりという事が起きて来るのだと思います。

諸事業を始める前に。

諸事業を始めたい、とお考えの方は成功するために是非ご一読ください。
事業を始めて永続き出来ず途中で失敗する方が大勢います。
なぜ失敗するのか?それは始めるときの心構えが成功する人と違うからです。
成功して長く続けたいと思う方は是非ご一読ください。ちょっと考え方を変えるだけで成功する事になる事請け合いです。 
「成功する心構え」(トップページサイドバー)をご一読ください。

大変うれしい一日。

12月3日(日)晴れ 先勝 一白水星  嬉しくて嬉しくての日でした。!(^^)!

2014年8月に、2か月間お預かりした娘さんが完治して親子4人で訪ねて来てくれました。当初来たばかりは一言も口をきいてくれなかった娘さんでしたが、何とか話が出来るようになり帰宅しました。その後親御さんの努力ですっかり明るくなり元気になっての来訪です。「叔父ちゃんこんにちわ」と入って来た時は何と言っていいか分かりませんでした。おもわずウルっとしました。親御さんにも丁寧なお礼を言われ、本当に良かったと思いました。やはり人には良くするものですね。
アドバイザーとして本当に報われた感じです。やっててよかったです。
これからも問題を抱えた人達の為に残りの人生を送りたいと思います。

めっきり寒くなりました。

すでに11月も終盤になって寒さもきつくなってきました。今年は秋が短いような気がします。
今月は19日の日曜日にマミーが体調を崩し救急入院しました。幸い4日ほどで退院出来ましたが、まだ体調は良くありません。毎日私が家事をしています。主婦業って大変ですね。
明日は病院からの紹介で市内の専門医の所で診察を受けることになっています。私の家の隣にある市の保存林から落ち葉が舞ってきます。庭の落ち葉掃除も大変です。大量に舞い落ちるので結構な量です。
寒さがきつくなってきましたので皆さん風邪など引かぬようにご自愛ください。

観音経偈を読み終えました。

松原泰三さんの「観音経入門」を読み始め昨夜やっと読み終えました。
自分なりに納得できる内容をノートに写しながらの読破でした。大学ノート38ページになりました。誰でも理解できるように清書するつもりです。出来上がったら又掲載したいと思っています。観音経はもう一人の自分発見、慈悲と勇気をと言われますが、それを本当に戴いたような気がします。松原先生の本は愛読するつもりです。
現在は、「往生要集」源信著に挑戦しています。かなり難しい内容ですが何とか読破したいと頑張っています。

風の音・因縁果。

大型の台風が関東地方を直撃の様子です。雨や風の音が聞こえています。
本来雨も風邪も音はしないものです。ではなぜ風の音や雨の音が聞こえるのでしょう。風の音がヒューヒュー聞こえるのは電線や木々に触れて音が聞こえるのです。雨も同じように何かに触れて音がするし聞こえるのです。
釈迦(仏)の教えの中に「因果」「因縁果」という言葉があります。これは、「原因があって結果が生じる」という事です。風は縁(電線や木々)の触れてヒューヒュー音を出すのです。雨も屋根や木々に当たって雨の音として聞こえるのです。このように人間も同じで、現在の結果は何か原因があって何かの触れて結果があるのです。
病気や自分の問題に対して「原因不明」と言われますが原因なくして結果は無いのです。対人関係でも同じです。よく考えてみて下さい。必ず原因が見つかります。
前にも書きましたが仏と観音様の違い。仏は「因果(必然)の法則」にいち早く目覚める様にと人間に教えを説く役目、観音は慈悲と知恵と勇気を人間に与える役目です。

有難う感謝です。

昨日の夕刻、知人がチョッとの時間ずれで2人来られました。いつもお世話になっている知人と近くの奥さんです。楽しく話をして7時半ごろお帰りになりました。野菜を収穫してきたので少々ですが差し上げました。
今日は、また別の奥さんが会社が休みなのでと言って3人分の昼食(すし)を持参してこられました。食べながら世間話をして1時半ごろお帰りになりました。毎日誰かしら来てくれますので本当にありがたいです。
昔から人が来ないような家では駄目。と言われますが、来訪者があると世間の情報などが聞かれるので楽しいです。これも日頃の心がけでしょうか。去る者は追わず来るものは歓迎し接待する。他人の心配や困りごとは自分に置き換えて聞く耳を持って対応する。これが楽しい生活を送るには大切かと思っています。

釈迦と観音さま。

観音様は釈迦の脇役です。仏(ほとけ)と観音さまの違いは何でしょうか?
仏(ほとけ)は神と違い全知全能ではありません。ただ一刻も早く「因果(必然)の法則」に目覚める様にと、人間に願い、教えを説くのが仏(ほとけ)です。
観音さまの理念は「慈悲」と「知恵」。観音とは世の中の音を観るという事です。誰の心の奥底にもある「慈悲」と「知恵」と「勇気」のはたらきに他ならないのです。観音とはあなた自身の事です。あなたが気付くべきあなた自身の相(すがた)真実の相(すがた)なのです。観音経にはそのように書いてあります。

今日は彼岸の中日です。

皆さん墓参りはお済ですか?
仏教では「此岸(しがん)」と「彼岸(ひがん)」とが説かれています。
「此岸}とは我々が住んでいる現世で欲や煩悩にまみれいろいろな苦悩に耐え忍ばなければならない世界。
「彼岸」とは、欲や煩悩から解放された「涅槃の世界」(極楽浄土)の世界。
釈迦は「彼岸に渡れ」と教えています。
仏教の世界では大きな川(三途の川)の手前が「此岸」川の向こう側が「彼岸」です。ご先祖様の中にはまだ「此岸」で苦しんでおられる人や「彼岸」に到達している人もいるでしょう。
お彼岸は年2回、7日間あります。この間私達は善行をしてご先祖様の誰もが「彼岸」に無事渡れるようご供養するのが「お彼岸」です。
「般若波羅蜜多心経」は私たち普通の在家の人間が「彼岸」へ到達するための実践を教えてくれます。

西国三十三カ所観音霊場巡り。

9月3日の午前5時に出発し和歌山県那智勝浦の一番札所青岸渡寺を目指しました。
那智勝浦に着いたのは午後5時。丁度12時間です。今回は出来るだけホテルや旅館には宿泊せず車中宿泊をしながらで軽自動車に宿泊準備をして行きました。昔は徒歩で巡ったことを思い決めました。33カ所の距離は1000kだそうです。最後の岐阜県谷汲の華厳寺まで順番に巡ってきました。和歌山県・大阪・奈良・京都・滋賀・兵庫・岐阜と7県を巡ってきました。9月11日の午前中に無事帰宅できました。
いい出会いがありました。若い仏師・駐車場のご夫婦・愛媛から御出でになったご夫婦・そして楽しい住職。新しい自分発見もありました。
今回の旅で留守にして、心配だった体調の良くない家内は、近くの奥様や友人が毎日様子を見に来ていただいたそうです。感謝です。今回の巡礼は、そういった皆さんのご協力によって達成できたことに心より感謝とお礼を忘れることは出来ません。
これで100観音巡りの満願です。
昔は西国三十三カ所観音霊場巡りは歩いて回られました。春の彼岸に始まって秋の彼岸までかかったそうです。昔の人は凄かったですね。

 

子供の心の声を聞け。

最近の報道によると、この夏休み明けに自殺する子供の数が一番多い時期となっているそうです。
私の所へも数多くの子供の相談がありますが一番多いのが登校拒否・引きこもりです。自殺に関しては、その前に子供からの何らかの発信が必ずあります。親や周囲の方々(学校の先生等)がそれに気付かないのです。気付いても見過ごしているのです。それだけ親や周囲の方々(学校の先生等)が子供の様子を普段から見ていないことが現状です。
親としてのあなた方は自分の子供が普段どんな友達と交際しているか、どんな学校生活をしているかご存知ですか?
子供が自殺や登校拒否・引きこもりになって初めて気付き慌てふためくのです。それでは遅いのです。最近の報道でご存知のように「いじめ」にあって自殺してしまったお子さんに対し先生は全く気付かなかったとか、学校内で無かったことにしたりする風潮です。
教育委員会などは子供の立場になって対応してくれるところはほとんどないのが現状です。
何のための教育委員会なのか分かりません。皆、自分が可愛く現役中に自分の職責に傷をつけたくないのです。知らぬふりをして問題が起こって初めて慌てて釈明するような状況です。
親はもっと真剣に、普段から自分の子供の行動を観察し注意深く見守る事が大切です。そして子供の心の声を聞く耳を持ってください。学校に行く事だけが人生ではありません。
何かあってからでは遅いのです。そんな悩みがおありでしたらご一報ください。
今迄の経験からアドバイス出来ると思っています。子供は世の宝です。

早朝の来訪者。

今朝8時ごろ来訪したいとの電話がありました。以前に来訪された方です。電話口で泣いているような感じでしたので直ぐに来るようにと返事をしました。今日は朝から雨だったので私はゆっくりして起きたばかりでした。50歳ぐらいのお母さんです。娘さんとお父さんとの騒動で困ってしまったとの事です。いろいろお話を聞いていますと互いに「感謝の心」が足りないようです。そして「我」が強すぎます。注意しなければならない「三毒=貪・瞋・痴」の表れです。まあ親子喧嘩ですが、お互いに感謝の気持ちがあれば起きない問題ですが、人間はなかなか煩悩を取り払うことは出来ないです。が出来るだけ自我を捨てて感謝の気持ちを忘れないようにすれば「我」を張って争いになるようなことは少なくなるでしょう。間に挟まれたお母さんは可愛そうです。今勉強中の観音経には怒りが湧いてきたら「南無観世音菩薩」と唱えなさい、必ず心が鎮まる。と書いてありました。皆さんも怒り心頭になった時これを実行してみてはいかがですか。(^^)/

観音経を読んでいます。

昨日久し振りで塗装現場に行って来ました。職人さんが作業中に車内で観音経の偈を読み直していました。般若心経と違った観音経ですがかなり勉強になります。
西国33カ所観音霊場巡りの準備段階です。霊場巡りをして何かを掴んできたいと思い勉強しています。しかし車中は暑かったですが、めげずに読み続けてきました。
これで2回目の読破です。

西国観音霊場巡り。

今年の目標であった西国三十三カ所観音霊場巡りを是非実行に移したいと計画しています。坂東三十三カ所・秩父三十四カ所は終了していますので西国巡りが終了すると百観音霊場巡りが満願となります。以前から何んとか満願したいと思っていましたが、年齢の事や体調の事も考えて今年が最後のチャンスではないかと計画しています。西国霊場は延べ1000kあるそうです。また霊場も今迄になく険しいところがあるようですので足腰が丈夫な内に行ってこようと思っています。家内と一緒に行く予定でしたが体調を崩しているので自分一人で車で行ってくることにしました。少し足腰を鍛えて行こうと思っています。観音霊場巡りは自分のためではなく周りの人々の安泰と幸せのために行く修行のようなものです。これで幾らかでも今後のカウンセラー等に役立てられればと思っています。

梅雨明け発表と退院連絡。

今日梅雨明け発表がありました。昨年より10日早く開けたそうです。梅雨明けと聞いても今年の梅雨は空梅雨でした。これから暑くなりそうです。
今日は土曜の入りです(8月3日まで)。本格的夏の模様です。
友人の奥様が、乳がんで入院していたのですが明日無事に退院することになりました。よかったです一安心しました。帰られたら日を見て退院祝いをしてあげようと思っています。人は一人で生きられないことを実感したそうです。

禅の栞より「怖い心の中の独り言。」

禅のエッセイを読んでいます。その中の一説を紹介します。

2011年の東日本大震災と、それに伴う原発事故以降、座禅や瞑想に興味を持たれる方が増えています。それは世界に言葉が氾濫し過ぎたからだと思っています。ネガティブな情報がインターネットやテレビや人の口から語られて、頭の中に入ってくる。心に不安を抱いている人は、情報のほんの10%を受け取っただけで、怖いストリーを作り上げてしまう。それが頭の中で無限にループして語られ出すと、ほかの人の話を受け入れられなくなるし、からだもしんどくなってしまうのです。
苦しいのは、心の中でずっと語っている独り言が自分自身を苛んでいるから。けれどもそのことにはほとんどの人は気づかず、自分を苦しめているのは他者だ、あるいは社会だと外部に敵を作るのです。
もちろん、社会的な状況を変えなければならないことは沢山あります。でも、この心の中の怖い司令官の声を遮断できるのは自分だけです。
私たちは言葉を使ってしか物事を認識できません。しかし、言葉によって自分の心を編んでゆく過程において、悩みというものも生れて来ます。つまり人間は言葉によって悩んでしまう性質も持っているのです。よって、悩みの原因は「言葉」だということを改めて強く感じました。  
以上、作家  田口ランディさんの講演録より

乳癌で入院されました。

友人(故人)の奥様が乳がんと診断されて手術をしました。ステージは0だそうで早期発見です。しかし、乳房は除去したそうです。入院前日私の所で食事会をしましたが精神的にかなり落ち込んでいる様子でした。「普段から人のために頑張っているから手術は簡単に済み回復は早いですよ。」と言ってあげました。今日病院からメールがあり元気に順調に回復しているとの事です。良かったし安心しました。
普段の生活を感謝の気持ちを忘れずに人のために過ごしている人はこのような時には何もかも上手く行くようです。日頃の心の持ちようが大切です。

東京からの訪問者。

午後2時頃に東京大田区からご夫妻で御出でになりました。水戸駅からタクシーで来られました。ご主人は初めてですが67才、とても苦労された「いい顔」をしていました。
それを告げると苦笑いをしていました。とっても感じのいい方で終始ニコニコして話を聞いています。3時ごろの電車でお帰りになるとの事で水戸駅までお送りしてきました。「また来ます」の声で何となく安心しました。おとなしいご主人で奥様はちゃきちゃきです。同じ年のご夫婦ですがいいご夫婦です。
今日は、午後5時にひたちなか市まで来てほしいとの依頼で行って来ます。何か話したいことがあるようです。お役に立てればと考えています。

水子供養

6月5日に相談者の奥さん二人を水子供養に案内してきました。
埼玉県秩父市小鹿野町にある日本三大水子供養の「紫雲山地蔵寺」です。山道の奥に開けた山を見ると誰もがビックリします。一面お地蔵様が並んでいます。その数一万数千体それは見事なものです。北海道から九州まで皆さんが建立されたお地蔵様です。地蔵寺は毎月一日から五日まで僧侶がご供養してくれます。本堂はいつの間にか女性で一杯になります。一人一人お名前を読んでご供養してくれます。
水子はいろいろな弊害をもたらすと言われています。特に女性の方の病気などに多く見られるようです。しっかりご供養をしてご冥福を祈りたいものです。今迄も子供が授からない相談が多くありましたが、お話を聞いてご供養をするようにお勧めしています。結果、子供が授かり喜んで報告して頂いています。それは何故だか私にも分かりませんが「因縁果」「因果」の言葉にありますように何事も原因なくして結果は無いのです。その原因が水子供養であったならばと思うと納得で知るような気がします。

乳がん。

友人(故人)の奥さんが健康診断で乳癌が見つかり、精密検査を受け正真正銘の乳癌と通告されました。病状のステージはまだ初期段階でステージ1にもなってないそうです。が、医者の言うことには、乳房を切除するとの事で本人はかなりショックを受けています。主人を亡くしてからは結構頻繁に相談に来ています。真面目な方で信仰心も厚い人です。6月2日に手術の説明があるそうです。本人は悩んでいます。何とか乳房を切除しない方法で出来ないものかと?
乳癌はご先祖様の中に「子育て放棄」した方がいらっしゃると後世の誰かに乳癌が発症すると言われています。本人のご先祖様にも居ることが分かりました。しっかりこのご先祖様をご供養することが大切です。何とか簡単に手術が成功すること願っています。

悲しい連絡がありました。

数年前からうつ病で悩んでよく相談に来られた47才の男性が亡くなったとの事です。
つい20日ほど前に現在の職場を辞めて何か手に職を付けたいなどと電話相談があったばかりでした。子供さんが二人いるのですが、今までも家庭や職場でいろいろ物議を醸し出してその度に相談を受けてアドバイスをしていました。人間は真面目な方でしたが人の話を聞くということがなかなか出来そうにない兆候がありました。常に自分が正しいと思っているような節がありました。それにしてもまだ若いのに亡くなるとは?残された奥さんと子供さんが心配で可哀想でなりません。
本人のご冥福を祈るばかりです。

突然の嬉しい電話。

2014年の8月終盤にうつ病でお預かりした21才の娘さん、殆ど口をきいてくれなかったのですが2か月間一緒に暮らしました。私の力不足で完治させることは出来ませんでした。その後連絡が取れなかったのですが病院に入院して治療していたようです。
昨日の朝突然の電話がありました。それはもう今までの声ではなく元気いっぱいの声でした。父親の知り合いの方の所へ就職することになったそうです。叔父さんに会いたいと何度も言ってくれました。東京へ向かう車からの連絡でした。ずっと心配していましたが社会復帰が出来たことに嬉しくて込みあげてくるものがありました。本当に良かったです。そのうちにお会いできると思っています。楽しみに待っていようと思います。元気にやってくれることを祈っています。

禅の言葉「両忘」

両忘」禅の言葉にありました。
                     「やる」とか「やらない」とかこだわらない。

人間はいつも迷いの中にいます。何か行動を起こそうとするときも、「やるべきか、やらざるべきか」と迷う。現実的な迷いは、それをやったら「得か、損か」ということかもしれません。
禅語の「両忘」は、善悪や迷語など、対立する概念を忘れ去った自由平等な境地を意味する言葉です。善いとか悪いとか、勝手なレッテルを張らずに、あるがままを受け取る、と言ったところでしょうか。
中国南北朝時代の僧・宝誌禅師の残した言葉です。「両忘すれば常に心は静寂の境地となり、自然に真理と一体となることが出来る」
ああだ、こうだ、というはからいを忘れてしまえば、心はシーンと静まりかえって、騒ぐところは一つもない。そんな心地の良い境地でいれば、おのずからの真理の中で生かされていることがわかる、といった意味でしょう。
自分の目の前にあるもの、たとえば、仕事でもそれ自体には得も損もないのです。
思い切ってそれを忘れ、もっと楽に、自由に取り組んでみませんか。

と書いてありました。損得で生きていると静寂な心は生まれないでしょうね。

論語で見つけた言葉。

「徳は孤ならず必ず隣あり」
*徳のある人は孤立することなく、必ず良き協力者にめぐまれる。

たまたま読んでいた本に出ていましたので記載しました。仏教ではよく「徳」を積みなさいと言われますが、徳とは何ですかと聞かれますが、「自利利他」「忘己利他」という言葉になります。自分の利より他人の利を優先しなさい。ということですね。なかなか難しい事ですが徳を積む人に悪人は居ないと言われています。

報告がありました。

今日正午頃市内のご婦人がしばらくぶりで訪ねて来ました。今日は休日なので先祖の墓参りに行っての帰りと言っていました。
秩父の地蔵寺に行ってきたとの報告でした。結構遠かったと言っていましたが、行ってきてとても良かったと言っていました。娘さんと二人で行って来たそうですが、それなりの収穫はあったようです。再度旦那さんと行ってくるそうです。紫雲山地蔵寺は日本三大の水子地蔵です。行ってみると誰もがビックリします。水子のある人は是非供養に行ってみてください。毎月1日から5日までは住職が滞在しています。水子はいろいろな問題を起こします。代表的なのは、ご婦人の下の病気です。そのほかにもいろいろな障害を起こしますのでご供養してください。
子供が授からない場合にお参りすると授かった例がたくさんあります。

禅語   「当たり前のこと」をやればいい

平常心是道・・・へいじょうしんこれどう     禅…心の大掃除より
禅の言葉にあります。飾らない自分を見つけることが「悟り」と説いています。
「悟り」と聞けば、長きにわたる修行の末ようやく到達できる。特別な境地だと考えている人が多いのではないでしょうか。
しかし、禅語は「平常心是道」と教えています。日々、当たり前のことを当たり前にやっている心こそ道であり、悟りもそこにある、という意味です。
茶人の千利休も、茶の湯について「茶の湯とは、ただ湯を沸かし、茶を点てて飲むばかりなるものとこれ知れ」という言葉を残しています。
なにも道を究めようなどと、力むことはないのです。ただ、今やるべきことを自分の命を込めて当たり前にやっていればいい。命を込めるとは、ひたすら取り組むこと、といっていいかもしれません。
誰にもその瞬間、瞬間になすべきことがあります。それは仕事かもしれないし、勉強かも知れません。しかしいずれにせよ、「何かのためにする」「これすれば何かが得られる」などと、とらわれることなく、目の前のことに集中して自分を投げ込む、そこに飾らない自分の姿があり、その心こそが「悟り」でもあるのです。と言っています。

禅語   身の丈で生きる。

名利共休・・みょうりともにきゅうす。
禅の言葉にあります。
世間での名声や、豊かな富を手に入れれば、誇らしい気持ちになるものです。ただし、それは自分だけの「心の褒美」と心得ておくくらいがいいでしょう。
名利共体とは全体では名声や利得に執着しない心を持つ、という意味です。
名声や利得を笠に着てふんぞり返ったり、傲岸不遜に振舞ったりするのは、全体に、名声や利得に執着しているから。そんな態度を続けても、一時は周囲に大勢の人が集まってくるかもしれませんが、もし名声や利得を失ったらどうでしょうか。おそらくクモの子を散らすように人々は離れていくはずです。
名声も利得もずっと持ち続けられるものではありません。何かあれば、いとも簡単に消え去ってしまうものです。そんなものに執着せず、日常の中で心の充足を見つけるようにしましょう。と言っています。
私の友人も会社が全盛のころは多くの人たちが集まって来て友人をちやほやしたものですが会社を〆た途端に誰も寄り付かなくなりました。みんな自分の利得を考えて集まって来ていたのです。人間は寂しいものですね。
私は今でもその友人と付き合っています、それが利害を超えた真の友人ではないかと思っています。

人間の悩みの基は「煩悩」にあり

今年も宜しくお願いいたします。

新年明けましておめでとうございます。

昨年の皆様のHP御来訪を感謝申し上げます。
今年はもっと充実した内容になるように頑張りますので宜しくお願いいたします。

現代でも「人情」は捨てたものじゃない。

家内の退院後、知人の奥様が「肉じゃが」を作って届けてくださいました。嬉しいですね。また、友人が私の好きなポンパドールのフランスパンを2回にわたり届けに来てくれました。また、数日にわたり家内の状況を見に来ていただいたりと「人情」古い言葉に聞こえますが未だに生きています。嬉しい限り感謝感謝です。
世の中捨てたもんじゃないですね。
これからも人のお役に立てるよう精進します。

13年前の後遺症。

私の家内が13年前に「くも膜下出血」で脳動脈瘤の手術を受けました。今まで何の後遺症もなく生活していましたが12日の土曜日に突然倒れ意識を失いました。救急搬送され検査の結果13年前の手術の後遺症と判断され16日まで入院し発作が収まりましたので退院してきました。今後は後遺症の発作を抑える薬を一生服用するそうです。怖いものですね。手術の後13年目ですよビックリしました。
私は脳梗塞ではないかと心配しましたが良かったです。

本当に嬉しいです。

無料で様々な相談をアドバイスさせて頂いておりますが、今月は嬉しい話が届きました。
相談は、一昨年娘さんのお父さんからでした。娘さんが長男の所へ嫁いだのですが、今迄子供を授かっても産み月近くになって流産し、今までに6回も流産を繰り返して困っているとの事で、何が原因なのか教えて欲しいとの切実な相談でした。、
いろいろと質問させていただきました。水子の話は長くなりますので記載しませんが、水子は様々な病の原因を作用するようです。特に女性の方々は注意が必要です。そのような因縁を断ち切るためにはしっかりと水子供養をすることをお勧めします。この相談者にも直ぐに供養するようにお話ししました。早速水子供養に埼玉県の日本三大水子霊場のある地蔵寺に行って供養をしてきたようです。
結果、昨年無事男の子を出産し一年過ぎたので子供さんを連れて夫婦と相談者の4人で子供さんを見せに来られました。
大層感激して喜んでくれましたし、私もアドバイスして良かったと嬉しく思いました。子供を授かれないで私のアドバイスで無事授かった方は何人もおいでです。
現代の科学や文化の発達にも関わらず原因がわからないことは沢山あります。しかし、今回のような実例を見ると一概に昔からの教えを否定することもできませんネ。
子供さんが欲しくてもなかなか授からない人は大勢います。水子の問題だけではなく様々な問題(ご先祖様)で子供を授かれない方がおりますが、もう一度原因を探されることをお勧めします。
今月は本当に嬉しい月となりました

今日は嬉しかったです。

9月28日(水) 曇り雨 大安  八白土星  蒸し暑い一日でした。

今日、久しぶりに頑張っている少年が授業もバイトも無しなので遊びに来ました。
10時ちょっとの水戸着の電車で来ました。水戸駅まで迎えに行きましたが、たくましく元気で明るい少年になっていました。
介護学校やバイト先の話、家族の話など多くの話題で盛り上がりました。安心し又嬉しかったです。(^^)/
午後4時に自宅近くの駅までマミーと一緒にドライブしながら送ってあげました。本人も楽しかったようです。
やはり、何か悩みや問題を抱えている子には充分話を聞いてあげてアドバイスすることが大切ですね。
はや4年たちますが立派に成長してくれているところを大変うれしく思います。(^^)/

少年から嬉しい電話。

9月23日(金)雨 赤口 四緑木星  今日も又雨、やんなっちゃうね。

昨日、嬉しい電話がありました。介護学校へ通っている少年からの電話です。
今月の28日に訪ねて来るとの連絡です。何か相談があるのでしょう。親には何か相談事があったら私の所へ相談に行くと言っていたそうです。
楽しみに待っていようと思っています。
マミーが今日は体調を崩しています。新しい処方箋の薬を今日から服用したのですがその副作用のようです。明日から服用しないようにしました。夕刻からは徐々に気分が良くなってきた様子です。安心しました。

明日は彼岸の中日です。

彼岸の中日、秋分の日ですね。
御先祖様に感謝して家族みんなで墓参りに行きましょう。雨が降りそうですね。通常は彼岸の中日は雨が降らないものですが明日は心配です。
今テレビで遺骨の話をしています。いろいろ問題があるようですね?昔はこんな事はなかったような気がします。親の遺骨を管理できない子供の話ですが、世の中狂ってしまったのでしょうか?
「子供は親の背中を見て育つ」と言われています。子供が親の遺骨を管理できないということは、その親も同じような事ではなかったのではないかと思われます。輪廻転生です。因縁果ですね。

嬉しい電話と問題電話。

3年半経ちます。立派に返り咲いて元気で介護専門学校に通っている少年から電話です。介護実習で一週間宿泊して介護経験をしてきたそうです。大変だったけど楽しかったとの報告でした。登校拒否から引き籠り、その子が私の助言で立派に元気になり、この報告です。嬉しい報告でした。
又、4年ほどお付き合いの相談者社からの久しぶりの電話です。まだうつ病から脱却できません。会社の問題や家庭内の問題での相談です。彼は45歳と思いますが、我が強く一人で考え込むことが多く、これが問題です。現在会社を休んでいる様子でした。今回のアドバイスとして、家に引きこもってテレビを観たり本を読んだりしているとのことですので、表に出て体を動かして汗を掻くくらいウォーキングしたり趣味のテニスをしたり何か無心になれることをするように言いました。
「人間は聞く耳を持つ」事が大切です。アドバイスしてくれる人の話を素直に心にとめて実行することが大切なのです。そうすれば必ず道は開けるものです。
「我」は災いの元です。

何歳になっても子供は心配です。

数年来の相談者のお母さんです。
息子さん(33歳)が近い将来家を建て直す予定だそうです。自分も一緒に住むそうです。
何時頃に着工したら良いかとの相談です。この息子さんは何度かお見えになっています。働き者の息子さんで結婚して近くに住んでいるようです。頼もしい息子さんです。
早速調べてあげました。準備として今から金融機関に信用を得るための月掛預金をするようにお勧めしました。
住宅ローンを申し込むにも口座や信用が無ければ思うように融資してもらうことは出来ません。そのための準備です。いきなり金融機関に融資を申し込んでも対応してくれません。
何歳になっても子供は子供なんですね。親は大変です。(-"-)

言うことを実行しない人。

昨日、度々離婚の相談に来ていた主婦から電話がありました。今迄何回も同じアドバイスをしてきたのですが実行に移すことがなく今日まで来ました。今回の電話で、そのことを告げましたが電話が切れました。
相談に来て、アドバイスを信用しないで実行せず上手くいった人は一人もいません。この方は今までも何回も来られたのですが、何時も同じ状況でした。普段の生活でもそうなのだろうと思われます。これでは周囲の人の良く思われませんし相手にされなくなるでしょう。本人は自分が正しいと思っているようですが、大きな間違いです。
人は一人では生きてゆくことは出来ません。常にすべての面で感謝の心をもって行動すれば道は開けてきます。
何のために相談に来たのか理解が出来ませんでした。残念です。

五月病?

五月に入り連休明けに多く発生すると言われる5月病。
新入社員に多いようですね。
早くも1件ありました。職場での人間関係で先輩社員の言葉の問題でした。
まだ就業したばかりの何も知らない若者に対する言葉遣いには、先輩社員諸氏は注意しなければなりません。ちょっとした事にも戸惑う新入社員です。
相談者は、何とか納得?我慢して就業していてホットしています。

4月は嬉しい知らせが2件ありました。

4月は出会いと別れ、花見の季節ですネ。
いろいろ相談していた子供さんが二人とも無事卒業して、一人は入学、もう一人は就職が決まり、それぞれ新しい人生に向かって出帆しました。夢多き楽しい人生であることを祈ります。
こんなお知らせを受けるとアドバイスしていて良かったな、としみじみ感じずにはいられません。これからも頑張って皆さんのために尽くしてゆきたいと思っています。

一人籠って書いています

このところ自己所有の貸家にて、一人で自己研さんに励んでします。今日も午後から本を持ち込み感想を書いたりしています。今までいろいろな体験や勉強したことを一冊の本に残そうと毎日頑張ってPCに向かっています。約200ページほど進みました。これからもう少し頑張ってページ数と内容を充実させたいと思っています。誰も居ないので集中して作業が進みます。

午後二組の方の来訪。

2月9日(火) 晴れ  友引 四緑木星  名前選びは難しい。
昨日午後1時に、以前から何かと相談に来られる奥さんが長男のお嫁さんを連れて来られました。4月に内孫が生まれるそうで大そう嬉しがっていました。男の子だそうで名前を選んで欲しいとの事でいろいろな名前を書き出してきました。みんな帯に短したすきに流しで思うようにいきません。再度選びなおしてきますと言ってお帰りになりました。以前に、この方の、二人の娘さんの子供の名前も付けさせて頂きました。

午後4時には時々訪れる奥様が今年高校を卒業する息子さんを連れて来られました。就職も決まりホッとしたようです。すこぶる感じの良い、いい顔をした息子さんでした。世の中に出てからの心構えなどを話しました。今度は一人で来るそうです。

2回目の訪問者。

昨年お出でになった市内の奥さんが午後3時に来訪しました。特別相談事はなかったのですが、話をしたくなって来たそうです。
色々な話を聞いたりアドバイスしたりして4時間ほど過ごしてお帰りになりました。
普段相談できないことがあったのでと言ってお帰りになりました。
皆さんも何か話したいことがあった時にはご遠慮なくお出で下さい。
近いうちに自己所有の貸家を自由解放しようと思っています。現在、リフオームしています。お楽しみに・・・・。

 

今日もまた

今日も正午の頃、何度もお見えになっている女性の相談者の方が来訪しました。
一緒に食事をして3時ごろ降雪が始まったのでお帰りになりました。熱心な方でご主人を亡くして3年過ぎますが元気で頑張っています。時々仕事の帰りに寄ってゆきます。一緒に食事をして帰られますが一人の食事は寂しいのでしょうね。とても喜んでお帰りになります。一人でも笑顔を見せてくれる方が増えると嬉しいです。

今年の正月は

今年の正月は4日より相談者が来訪し夫婦で朝からゆっくりしたのは2日間でした。
今日は1月15日です。今日も午前10時に来訪者があり午後2時半までお話をしていました。今年は何か忙しくなりそうです。
もっともっと皆さんのお役に立ちたいと思っていますので、何かお困りの方はご遠慮なく来訪・メールをください。お待ちしています。

最後の拝顔。

16日に亡くなった知人のお宅へ伺って拝顔し線香を手向けてきました。
穏やかな顔で眠っていました。人は生前に善行をしていると、亡くなった時に穏やかないい顔をして居ります。悪行をしていると、それなりの顔になります。人は生前でも死後でもその人の心持が顔に表れています。
私は、顔を見るとほゞその人の心持が分かるようになりました。人間は善行をしてポジテブに生きようではありませんか。明るく生きることが幸せにつながります。

[ 性善説」

「性善説」と言う言葉がありました。
人間は善を行うべき道徳的本性を先天的に具有しており、悪の行為はその本性を汚損・隠蔽することから起こるとっする説。正統的儒学者の人間観。だそうです。孟子の首唱。
人は誰でも仏性を持っている。と同じような言葉ですね。

今日の相談来訪者。

今日の相談者は、32歳の既婚者です。相談は、子供が欲しいのですが子供が授からない。との相談でした。
いろいろ過去に同じような相談者が子供が授かった話や、どうしたら子供が授かるかなどの話をしました。私の言ったことをすぐに実行すると言って元気にお帰りになりました。無事、子供が授かることを祈っています。

禅の心・「平常心是道」

禅の言葉に「平常心是道(へいじょうしんこれどう)」と言う言葉があります。
「当たり前のこと」をやればいい。飾らない自分を見つけることが「悟り」

{悟り」と聞けば、長きにわたる修行の末にようやく到達できる。特別な境地だと思っている人が多いのではないでしょうか。しかし禅語は「平常心是道」と教えています。日々、当たり前のことを当たり前にやっている心こそ道であり、悟りもそこにある。と言う意味です。
茶人の千利休も、茶の湯について「茶の湯とは、ただ湯を沸かし、茶を立てて飲むばかりなるものとこそ知れ」と言う言葉を残しています。なにも道を究めようなどと、力むことはないのです。ただ、今やるべきことを自分の命を込めて当たり前にやればいい。命を込めるとは、ひたすら取り組むこと、と言ってもよいでしょう。
誰にでもその瞬間、瞬間になすべきことがあります。それは仕事か勉強かもしれません。しかし、いずれにせよ、「何かの為にする」「これをすれば何かが得られる」などと、捉われることなく、目の前のことに集中して自分を投げ込む。そこに飾らない自分の姿があり、その心こそが「悟り」でもあるのです。と教えています。

来訪者の予約が入りました。

31日の土曜日相談者の来訪予約です。
前に来られた方の紹介です。これで大きな徳を積みましたね。きっといいことがありますように・・・・・。
良く仏教では「徳」を積みなさいと言われます。「徳」とは何ぞや?「徳」とは自分の利を考えづに人の為にすることです。困っている人を導いてあげるのは大きな「徳」となります。
来月の11日にも予約が入っています。ひたちなか市の農家のご婦人です。電話相談・経過報告と皆さんから連絡が入ります。話を聞いて一喜一憂しています。

今夜の訪問者。

時々来られる奥様です。特別な相談はないのですが来訪されました。職場のことや友人のこと子供のことなどをお話になりお帰りになります。話を聞いてあげて時折話をさせて頂きます。楽しい方で、初めて相談に来たときとは、まるっきりお代りになり明るく楽しい人になりました。息子さんやお嫁さん、ご主人以外は家族全員が私の所へ来ています。いろいろ問題はありましたが現在は楽しいいい家族です。相談事に対するアドバイス等やってて良かったと感じてます。

相談者来訪。

26日の土曜日午後一に新しい女性の相談者が来られました。時々お見えになる方からの紹介でした。パートで同じ職場に8年間働いているそうです。転職の相談でした。年齢的にも転職は無理でしょうね。お金の話を良くしていました。先ずお金、執着しています。今更転職しても良いことはありません。人間としての生き方、考え方などをお話ししてあげました。3時間ほど話し合ってお帰りになりました。明るい声で元気な笑顔で帰られましたので安心しました。又、来ます。と言ってお帰りになりました。
元気になって帰られる姿を見ると嬉しいです。

常連となった相談者。

46歳男性。2年越しになります。当初は鬱病の相談で来ました。会社も永く休んだりしています。原因は会社での配置転換で人間関係が上手くゆかずウツになったと言います。私から見れば、その問題もありますが本人自身の問題です。自我が強く人の話を聞かず相手を思う気持ちがないです。もちろん感謝の気持ちはほとんどありません。細かいことを言い過ぎます。何でも自分の思っていることを空気を読まずに言ってしまいます。これではなかなか人と上手くやっていくことは難しいでしょう。いろいろ話を聞いたり言い聞かせたりするのですが、その時は理解するようですが実践できていません。しかし、私と話をするとスッキリすると言って帰ります。あまり細かいことを言い過ぎるので家族にも呆れられているようです。奥様や子供さんは大変のようです。本人は体調が悪くなって会社を休むような時に必ず電話をくれます。これからも長い付き合いになりそうです。

禅の教え。「不生不死」

もっと肩の力を抜くには          
「生まれて、死ぬ」・・・・・ただそれだけ
生まれて、死ぬ。どんな人でもこの摂理から逃れることは出来ません。だからこそ、少しでも長く生きることを願い、死ぬことに対して不安や恐れを抱くことになるのでしょう。
禅語に「不生不死」と言う言葉があります。生死は変えようのない絶対的なものだ、と言う意味です。
生も死も、私たちの手の及ばない絶対的なものなら、それについて思い悩んだりしたって仕方ないのではないでしょうか。摂理に任せるほかありません。任せきってしまえば、こだわる必要もなくなります。
「こんなふうに生きなくちゃ」とか「死ぬまでにこれだけはしておかないと」といった縛りが心から消え去っていくのです。今この瞬間、自分が生きている。「それだけですごいじゃないか!」と思える。その‘すごい自分,を真剣に、そして、淡々と生きたらいい。
禅の心に沿った肩の力が抜けて生き方とは、きっとそんなものだと思うのです。 
と書いてあります。なかなか難しいことですがそんな心境に慣れたらいいですね。

 

秋の彼岸入りです。

彼岸は日本独自の風習だそうです。彼岸にはご先祖様に感謝しながら墓参りをしましょう。
彼岸の意味について記しまうす。
彼岸とは、「彼の岸」すなわち「悟り、涅槃の境地」を意味し、その語源は、サンスクリット語「パーラミター(波羅蜜多)」の漢訳語「到彼岸」からきています。

煩悩と迷いの世界である「此岸」から悟りの世界「彼岸」へ到達するために、「六波羅蜜」の修行を行ないます。彼岸はその修行をするための期間でもあります。

※六波羅蜜(ろくはらみつ)とは、布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧という六つの実践徳目。

六波羅蜜とは

布施波羅蜜:他人に対して広く施しをする実践。 (ふせはらみつ)

持戒波羅蜜:日常生活の諸規則を守る実践。   (じかいはらみつ)

忍辱波羅蜜:じっと我慢する実践。       (にんにくはらみつ)

精進波羅蜜:あらゆる努力を惜しまない実践。  (しょうじんはらみつ)

禅定波羅蜜:現在していることに心を集中させる実践。(ぜんじょうはらみつ)

般若波羅蜜:智慧を理解し実践し、上記五つの実践を支える。(はんにゃはらみつ)

彼岸こそ「菩提(ぼだい)」すなわち悟りに到達するための実践行をなす期間として設定さ れた、仏教徒のための修業期間であったとされています。
彼岸の入り・彼岸の中日・彼岸明けということが言われていますが、もともとは、中日を はさんだ六日間の間に六波羅蜜多の一つを実践するすると言うのが、彼岸の起源だったと 言われています。

お彼岸には、お墓参りをし、お花や線香を供え、真心の合掌を捧げる修行が大切ですが、お参りは一度行ったら、後はほったらかしにするのではなく、彼岸参りに限らず何度でも繰り返し行なうことが肝心なのです。

次兄の死。

病気療養中の次兄が7日に亡くなりました。眠ったままで苦しまずに亡くなったそうです。通夜式告別式と所沢まで行ってきました。残念です。5人兄弟のうち二人が亡くなり長兄と私と弟の3人になってしまいました。寂しいですね。人間は生まれたからには死を迎えなければなりません。何人もこれを避けることは出来ません。仏教の言葉に「生老病死」とありますが、正に人生は儚く短いものです。今を大切に一生懸命生きることにしたいと思っています。

 

良くない連絡がありました。

埼玉県所沢市に居る、次兄の病状が回復に見込みがなくなり主治医に余命1か月程度と宣告されたとの連絡が入りました。81歳になります。病気は胃癌で、発見された時はステージ4に状態でした。胃を全摘出の手術をし抗がん剤治療もしましたがガンが無くならず現在は自宅療養中です。殆ど食べられなくなり痩せ細っています。
人間は生まれたら誰も死を迎えなければなりません。これを否定することは出来ないのです。運命と、一言で言ってしまえばそれまでですが、残念です。「生老病死」そのままです。

相手を思う。

人は、自我を捨て、相手を思い、感謝の気持ちを忘れない事が大切です。
自分が変われば相手も変わるものです。全て、自分に起こる問題は自分に原因があると思ってください。相手や周りに問題があると思っているうちは、まだまだです。心の持ち方次第で人生は開けるものです。

禅の教え。「卒哭」

「卒哭」 (そっこく)  生き方を変える。

自分が変わらなければ、前途は開けてこない。
過去を引きずって過去に執着すれば、今がなくなる。
未来はすぐに今になり、今は直ぐに過去になる。
過去にこだわると未来が見えない。

と、あります。何か自分に感ずる事はありませんか?

兄の見舞い。

兄が胃癌の手術をしたのですが術後の経過が思わしくなく、余命を宣告されてしまいました。兄は81歳です。
今日、所沢まで見舞いに行ってきました。落ち込んでいたようですが、行ってみるとやせ細ってはいましたが元気なので一安心しました。やっぱり兄弟に会えるのを待っていたようで、かなり嬉しかったようでした。世話になった兄なので本当に心配です。又近いうちに会いに行こうと思っています。兄弟の訪問は、本人にとってかなり嬉しく元気を取り戻すようです。

詩 「梅の実」

うめがとれた

きれいなみ まるいみ 

おおきいみ やせたみ

そばかすのみ

みんなちがうかお

にんげんみたいだな

もとをただせば みんなうめだ

釈迦の教え・「自業自得」

「自業自得」と言う言葉があります。あまり良い意味では使われていないようですが、良し悪し、どちらにも通じる言葉ではないでしょうか。
人間は、自分に起こる問題は全て自分に原因があり、自分で解決できない問題は起こらないと言います。
何か自分に問題が起こった場合は、冷静になってよく考えてみてください。必ず自分に問題があったことに気付くはずです。もし自分で原因が分からず解決できない場合は、ご遠慮なくお問い合わせください。

いつも訪問ありがとうございます。

このページにアクセスして頂きありがとうございます。
どんな問題でも、お悩みがありましたならご遠慮なくご一報ください。
人間関係・恋愛問題・病気の悩み・仕事関係など、どんな事でも結構です。
一人で悩まないでください。相談は無料です。

禅の教え。「却下照顧」

「却下照顧」(きゃっかしょうこ)と言う言葉があります。
足元をきちんと見なさい。と言う意味だそうです。足下とは拠り所となる自分の心と言ってもいいですが、心が整っていなければ、拠り所とはなりません。心を整える…それはまさに足下にあります。脱いだ履物があちこち脱ぎ散らかす、履物が乱れていても気にならないという事は、それだけ心が整っていないからです。
忙しいとつい脱ぎっぱなしになりがちですが、「忙」とは「心を亡くす」という事です。心ここにあらずで、心が整っていないことが、履物に表れてくるのです。いつでも履物を揃え整えて、ふっとひと呼吸置くくらいの余裕を持っていれば、それだけ心が整ってくるから不思議です。普段からの行為が大切なのですね。

古代ヒンドゥー哲人の言葉。

古代ヒンドゥーの哲人の言葉に「意識」が変われば「態度」が変わる。「態度」が変われば「行動」が変わる。「行動」が変われば「習慣」が変わる。「習慣」が変われば「人格」が変わる。「人格」が変われば「人生」が変わる。「人生」が変われば「運命」が変わる。「顕在意識」と「潜在意識」を自己の内面において変えることによって、人は大きな力を発揮することができる。ベルグソンは言った“自分の未来は自分次第だ”…………

悩める現代人の参考にしては如何でしょうか。

禅の言葉 「お陰様で」

「ご恩」を感じながら暮らす。
「お陰様」の心で私たちは生かされている。
普段何気なく使っている言葉に、「おかげさま」があります。この「お陰様」とは、陰に隠れて見えないご先祖様やご縁をいただいた方々のこと。
その存在があって今の自分がある、と言う感謝の思いが込めれれています。食べ物にしても私たちは当たり前のように毎日いろんなものを口にしていますが、禅では、その陰には100人の方の見えない恩恵があると教えています。
仕事だって、目には見えない大勢の人のご縁がつながっているからこそ、自分がそれに携わることができ、生活を支えてくれている。お陰様によって生かされている自分を、それぞれに感じることが大切です。

禅の言葉。毎日を「丁寧に生きる」

「不生不死」(ふしょうふし)・・「生まれて、死ぬ」ただそれだけ    もっと肩の力を抜く
生まれて、死ぬ・・・・どんなひとも、この摂理から逃れることは出来ません。だから、少しでも長く生きることを願い、また、死にことに対して不安や恐れを抱くことになるのでしょう。
「不生不死」と言う言葉は、生死は変えようのない絶対なものである。と言う意味です。
生も死も、私たちには手の及ばない絶対なるものなら、それについて思い悩んだりしても仕方ない、摂理に任せる他はない。という事になりませんか。要はこだわる必要もないことになります。
「こんなふうに生きなければ」とか「死ぬまでにこれだけはしておかなくては」とい言った「縛り」が、心から消え去ってゆくのです。今この瞬間、自分が生きている。「それだけですごいことじゃないか!」と思える。その「凄い自分」を真剣に、そして淡々と生きたらいい。禅の心に沿った肩の力が抜けた生き方とは、きっとそんなものだと思うのです。…と書いてあります。
森羅万象、自分ではどうにもならない摂理、悩んでもどうにもなりません。自然に任せてもっと肩の荷を下ろして生きようではありませんか。

毎日を「丁寧に生きる」禅の言葉。

「挨拶」が禅語だという事をご存知ですか。「挨拶」は「心と心で会話する」ための言葉。
「挨}も「拶」も押し合うという意味です。元来、禅僧がお互いに押し問答して相手の悟り程度を知ることを「挨拶」と言ったそうです。もともとの挨拶は相手に働きかけて、その心の状態を知ろうとするものだったのですが、これは現在の挨拶にも共通していると言えるでしょう。
「おはようございます」と声をかけて、相手から返ってくる挨拶の調子で、何となく相手の心の状態がわかる。また、相手にもこちらの心が伝わっていきます。明るき元気な声であいさつを交わせば、心と心でいいエネルギーが交換できます。そして、お互いに気持ちよく1日のスタートが切れるはずです。何を言っているかわからないような挨拶はやめて、スッキリと1日を過ごしましょう。

禅の言葉「心の荷物」をソットおろすコツ。

身の丈で生きる。「名利共休」(みょうりともにきゅうす)
禅の言葉で「名利共休」と言う言葉があります。名利は「名聞利養(みょうもんりよう)」の略だそうです。
全体では名声や利得に執着しない心を持つ、という意味です。名声や利得を笠に傲慢にふるまったりするのは、まさに、その名声や利得にしゅうちゃくしているから。そんな態度を続けても、一時は周囲に大勢の人が集まって来るかもしれませんが、もし、名声や利得を失ったらどうでしょうか。おそらく、クモの子を散らすように人々は離れていくはずです。
名声も利得もずっと持ち続けられるものではありません。何かあれば、いとも簡単に消え去ってしまうのです。
そんなものに執着せず、日常の中で心の充足を見つけるようにすることが大切です。
お年寄りに席を譲った自分をふっと好きになる、と言った簡単なことでいいのです。むなしい名声や利得よりも、ずっと心を豊かにしてくれます。と言っています。心が貧しいことは寂しいことですね。

大型連休、あなたの出かける方位は吉ですか?

いよいよ連休です。遠方にお出かけの際は十分注意してください。あなたの今年の方位を見てください。
もし凶方位の方角に出かけるときは十分な注意が必要ですよ。事故や怪我盗難などに合わないように十分気を付けましょう。

町内の親しい知人の逝去。

日ごろから親しくしていた知人の奥様が昨夜逝去されました。今朝ご主人から知らせがありましたので早速自宅に伺いお別れを言ってきました。以前から体調が思わしくなかったのですが、結局肝硬変で亡くなりました。
ご夫婦共仲の良い楽しい二人でした。残念ですが、人は生まれたからには誰もが死に至りますがその人の運命と考えるのは過酷な気がします。一緒に温泉巡りをしたことが思い出されます。ご冥福を祈ります。

 

お見合いパーティーに参加の男性は信用できますか?

役所主催のお見合いパーティーで知り合った男女が結婚することになり、結婚式前に入籍しましたがお付き合いが短かったために相互の理解度が不足のままでした、。お互いに意見が合わないと男性が直ぐに「離婚しよう」と言い始めたそうです。話を聞きますと、どうやら男性は初めから結婚する意志は無かったようです。離婚話ばかりで困っている様子でした。女性も結婚を夢見て理想の結婚生活を想像していたのですが、現実とのあまりの違いに困惑してしまったようです。うっかり結婚を急ぐあまりの失敗例です。結婚は一生の問題です。相手をよく観察してから入籍なり結婚なりをすべきです。

お悩みの原因は「莫妄想」ではないですか?

「莫妄想」(まくもうそう)     自分で心配の迷路を作っている人へ   禅語。

わざわざ心配の種を探していることは、ありませんか?
過ぎたことを何時までもくよくよ考えて、ため息をついている人。これから先のまだ見えぬことを思い悩んでいる人。その悩みは「妄想」の仕業です。現実の起きてもいないことをあれこれと頭の中で組み立てて、そのありもしない事に自ら捕らわれてしまう。
それが妄想の力、抵抗しないでいると、あっという間にあなたを蝕んでしまいます。
やる気もなくなり、ものごとを素直に捕えることも出来なくなってしまいます。
そんな自分に気づいた時は、「莫妄想!」と叫びましょう。妄想することなかれ。悩んだ時は、あなたが育ててしまったその「妄想ストーリー」に気付いてください。そして、無垢な気持ちで現実だけを見てみましょう。
頭の中に心配の迷路を作って、自分から迷い込むなんて、ナンセンス!   という事だそうです。

真理のことば。

「法句経」は真理の言葉。ブッタの教えを集積したものです。

物事は心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される。もしも、汚れた心で話したり行ったりするならば、

苦しみはその人につき従う。・・・・車引く(牛)の足跡に車輪がついて行くように。

子育てに苦労しているお母さん方へ

「道しるべ」シリーズ。として初版に「あなたは子育てに悩んでいませんか」を、小冊子で作っています。ゲラの検修も済み、いよいよ発行の運びとなりました。無償で配布したいと思っています。

読書

今日は、いくらか体調が良いのでベランダの日当たりで椅子に掛けて本を読みました。朝比奈宗源著「人はみな
仏である」白隠禅師座禅和讃・一転語です。いろいろな本を読みますがやはり相談者に対応するために仏教に関する本が多いです。どんどん読み進むという事は内容に魅力を感じるかでしょうか?この本も私には為になる本です。禅に関する本は結構面白いですよ。宗教に偏見を持たないであなたも読んでみませんか?

早くも相談者来訪。

今年も正月から相談者がお出でになりました。昨日で3人目です。電話の予約が入っていますので2〜3日の内にもう一人お出でになる予定です。今年も何だか忙しくなりそうです。もっとスキルアップして皆さんの要望にお応えできるように頑張ります。(^_^.)

自分の運命は自分が開く。

持って生まれた宿命は変えることが出来ませんが、運命は変えることが出来ます。2600年も前にブッタは現在も言い伝えられている運命論を説いています。自分の運命は自分が開く。
今迄自分の運命が良かった人はどうしてでしょう。また悪かった人はどうしてでしょう。それは「因果の道理」を知らないからです。「因果」とはすべての問題や自分に起こる様々な問題や苦しみ、それは原因があっての結果です。それを因果関係とか因果報酬と言う言葉で表されています。「善因善果」「悪因悪果」「自因自果」「廃悪修善」などのことです。
「善因善果」善いことをすれば善い結果を得られる。善い種を蒔けば善い芽が出る。
「悪因悪果」悪いことをすれば悪い結果が出る。悪い種を蒔けば芽が出ない。
「自因自果」自分のまいた種は自分で刈り取る。
「廃悪修善」悪いことはやめて善いことに改める。
私たちは小さな頃から「はなさか爺さん」の話を聞いてきました。皆に善いことをしていたお爺さんが桜の枯れ木に灰を掛けたところ綺麗な桜の花が咲いたのです。真似をして悪いことをしていたお爺さんが同じく灰をかけたところ花は咲かなかった、と言う話です。これが「善因善果」「悪修悪果」と言われるたとえです。

幸福な運命は善い行いから生まれる。善いも悪いも自分の運命のすべては自分のまいたタネが生み出したものですよ。と説いています。自分に降りかかった問題は誰のせいでもないのです。すべて自分の行いの結果なのです。問題を他人のせいにすることはなりません。今年から自分の運命を善くするために「善因善果」で行きましょう。

新年を迎えました。

昨年は有難うございました。
私は、暮れの30日にご先祖の墓を掃除に行き墓石を洗い、花・線香を手向け1年間無事に過ごせたことに感謝
してきました。
本年元日には内神様の吉田神社に参拝し、菩提寺のご先祖様の墓参りをし、新年の挨拶をして今年も無事に過ごせるようにお願いをしてきました。最近は元日に墓参においでになる方が大勢増えました。墓参をすると今年も頑張るぞ。と言う気持ちになります。皆さんもいかがですか?
何か問題が起こったときは墓参をお勧めします。何かヒントを与えてくれるようですよ。

心の禅語・「棺の蓋いて事定まる」

「棺を蓋いて事定まる」
 人間の真価は棺の蓋をして初めてその人間の評価が定まる。

と言う言葉です。世間には金や名誉を異常に欲しがる人がいますが。そんなもので人間の価値観は決まるものではないでしょう。いかに世のため人の為に尽力したか。それが最終的にその人の評価を決めるのではないでしょうか?

本の紹介。

若い方から定年前の皆さんに、特に40代からの方にお勧めの本です。
「林住期」五木寛之著 幻冬舎文庫 (490+税)
大変面白く自分の将来計画に役立つような内容の本です。お勧めです。

自分の「死」について考えていますか?

親しい仲間の友人が17日に肝臓がんで亡くなりました。昨夜の通夜式・今日の葬儀と参列してきました。
親しい同年輩の友人が欠ける事は本当に悲しいものです。8人の仲間の内二人が肝臓がんで亡くなりました。
一人は痴呆症にかかり何処へも出られません。年配になると仲間が次々と病気になったり、逝去したりします。
明日は我が身かと身につまされます。人間は生まれたら最後、死を迎えなくてはなりません。これを避けることは出来ません。如何にして悔いのない一生を送ることが出来るのか、今考えることが大切ではないでしょうか。
私は常に人の為に尽くす一生を送ろうと思っています。現在サイドワークでカウンセリングをしていますが、これを一生の使命として行きたいと思っています。唯一無料の相談所です。

急に力が抜けました。

お預かりしていた娘さんが自宅に戻ることになりました。昨日送り届けました。
何かホットしたような寂しいような気がして急に力が抜けたような感じです。2か月以上も一緒に生活していましたので情もうつります。もっと面倒を見てあげたかったのですがマミーが体力・精神的にまいってしまったので仕方がありませんでした。娘さん本人も自宅に帰り気分も変わるでしょう。早く全快することを祈っています。お父さんからは状況報告がありました。落ち着いて元気でいるようです。

ブッタの教え・人生は苦なり。

四苦、「生・老・病・死」と言う言葉があります。人間は生まれながらに「苦」を持って生まれてきます。やがて年を取り病気になって死を迎えるわけです。これは誰も避けて通ることはできません。
どんな裕福な人貧しい人でも、頭が良くても悪くても誰も同じです。悩みや苦しみを持たない人など決していません。生きているうちに善行を積み老後は安らかに、そして静かに自然な最期を迎えたいものです。

一日中寝ていました。

今日は一日中寝ていました。さすがにお腹が空いたのでしょう18時に起きてきました。
今から食事をする予定です。話をしてくれないので閉口しています。
何を考えているのかさっぱりわかりません。

再来訪者あり。

昨年から相談を受けていました男性です。9か月間会社を休んでいたのですが今年の3月からまた勤めに出ました。しかし、この7月から又休職し病院へ通っているとの事でした。鬱病の方です。話してみると普通の感じなのですが、どうも会社に行くと思うようにはいかないようです。今日も電話があり、11月から出社することにしたそうです。アドバイスとして、焦らず・自分のペースで何事もするようにと伝えました。順調に回復すれば元通りの生活が出来るようになりますので焦りは禁物です。

今日もまた相談者が来訪しました。

今日午後にお二人の方がお出でになりました。一人は依然相談に来た青年で、同僚の女性を近日中に連れて来るとの事でした。もう一人は東京からの来訪者です。41歳の男性です。現在の職場に勤務して9年経過しているそうですが転職を考えているとの相談でした。この年齢は丁度自分の将来の人生計画をいろいろと考える年齢です。20歳で世の中に出発し20年後の40歳が人生の中間です。残り20年が人生の後半です。ちょうど中間時期に後半の人生計画について考えるものなのです。
転職は勧めませんでした。それより自分の考えや心も持ちようを説いてあげて、それを実践して行けば人生は明るく運も開けてゆくことを話しました。納得して元気な顔になってお帰りになりました。
自分に起きてくる問題は自分以外に解決できる人はいないのです。それには人間本来の生き方に戻る吉が大切なのです。それは全てに対する感謝の心を持つことです。それですべて解決できます。
現在相談を受けている関西の45歳の方もこの感謝の心を忘れていました。そして、感謝の気持ちをどう表わしたらよいのでしょうか?と言う質問を問いかけてきました。
感謝の気持ちの表し方はありません。感謝の気持ちを常に心に持ってすべてに対して接していると、自然に態度や顔つき、言葉に全ての立ち振る舞いに変化が現れます。これが感謝の心を持つ意味です。

気分転換になると思って

ウツ病でお預かりしている娘さんを連れて家内と3人で福島県高湯温泉に1泊してきました。部屋からの景色に感動した様子でした。温泉にも3回入ったようです。チョッとだけ気分転換になったようですが、普段出歩かないので疲れた様子でした。このまま順調に回復してくれれば幸いです。

今日で17日お預かりしています。

先月の24日にお預かりした娘さんが今日で17日経ちました。結果は良好です。お預かりしたときはどうなることかと心配しました。今日までいろいろありましたが、ここ数日はしっかり安定していますし食欲も出てきました。顔色もよくなっています。しかし時々落ち込みます。今日はマミーと3人で菜園に行き野菜の種まきをしてきました。
一生懸命に蒔いてくれました。夜も初めは寝てくれませんでマミーが参りそうでした。親御さんも心配して週に1日は泊りに見えます。明日またご夫婦で来られますが娘さんは楽しみにしているようです。できるだけ外出できるように気配りしています。買い物にも付いてきますが、当初は車から降りてきませんでした。今はマミーと一緒にカートを押して品選びをしています。少しづつですが人の目を気にしなくなってきました。1日も早く通常の生活に戻れるよう気を配っています。

肝臓がん。

知人が肝臓癌で手術をしたのですが、今一調子が良くなく、転移の疑いがあると言われて放射線治療をしたそうです。あまり元気がないとの事なので話し相手に行ってきました。
術後に抗がん剤治療をしたのですが副作用が激しくて現在はしていないと言ってました。その代わりに漢方薬
を調合してもらって服用しているとの事でした。その後は食欲も出てきて現在のところ体調が良くなって来言って通常の生活をしています。快方に向かってくれることを祈ります。

肝臓がんは何故起きるのでしょうか?仏教感から言いますと。ご先祖様の中に幼くして、はやり病で亡くなった方が居られますと、どうやら肝臓や腎臓などをやられる事になりそうです。昔は殆どの家に幼くして流行病で亡くなられた子供さんがいたようです。きちんとご供養されていれば問題ないもですが、もし、ご供養が本人に届いてないと問題が起こるようです。以前にも書きましたがご供養とは、亡くなった本人にその死因を教えてあげることなのです。これが本人に届けば納得して成仏してくれます。それには一度のご供養で届く場合もありますし数度ご供養しなければならない時もあります。これを「因縁を切る」と言うようです。ご供養が届けば快方に
向かうでしょう。これは、私自身、他の方の相談で実証済みです。肝硬変でインターフェロンを投与されていたのですが、ご供養したら血液検査の結果完治していました。その後インターフェロンの投与はお断りしたそうです。現在はシルバー人材センターで働いていると言うことです。
世の中には不思議が一杯です。2500年も以前にお釈迦様が説いたと言われている事を実践したらこのような結果が出たのです。摩訶不思議ですね。
こんな簡単なことで元気になれるなら現在肝臓病で苦しんでいる方は実践してはいかがでしょう。

入籍日の相談に来られました。

市内の方がお母さんと二人で相談に来られました。以前にも数回お出でになった方で、今回は次女の婚姻が
決まったので先に入籍したいので入籍日を見てほしいとの事でした。いろいろ調べて吉日をピックアップして提
示させて頂きその中から二人で決めて頂くことにしました。お目出度いことはいいですね。
いろいろな話をして2時間ほどでお帰りになりました。次回は結婚式の日取りの相談に来るそうです。

立ち直りました。

1年以上前から高1の子供さんの、引きこもり・登校拒否の相談を受けて何度かアドバイスを続けてきました。
先日その子が訪ねてきました。すっかり明るくなり体も大きくなり元気な姿を見せてくれました。
お母さんからは週に2回ぐらいづつ電話連絡を受けていたので状況は大体わかっていました。今年の初め頃から自分で通信制の高校に通い始め、アルバイトもしバイクの免許も取得しました。また先日は中学時代の友人と花火を見に出かけたそうです。友人が変な目で自分を見ているのではないかと心配したようですが、全くそのようなことはなかったようで本人も安心し自信がついたようです。
すっかり元気になり元に戻ったと思いました。良かったですし安心しました。お母さんからもお礼の電話を頂きました。私も少しはお役に立てたようです。

「因縁果」の言葉を知っていますか?

何事の問題も全てに「原因」があります。その原因が「縁」に触れて結果を表します。
これが「因縁果」です。
人が集まると、いろいろな話の中で「困った」という話が出てきます。子供や仕事・病気などの問題が多いです。それぞれ原因があるのですが、その原因は誰も解らないし感付かないのです。
先日も後輩から、85歳になる親父が脳梗塞を患って左半身が利かなくなって杖を突いていたのですが、現在は杖も使えず歩くことが出来なくなってしまったとの話でした。困っているんです。とのことでした。
先ず、頭の病気は人の話を素直に聞く耳を持たない「頑固者」がなりやすいです。
次に左半身に障害がおこる。ということは、自分に原因があるのです。今迄の考え方や生き方に問題があると右の脳が侵されるようです。ちなみに、右半身に障害が出る場合は左の脳が侵されているということです。左の脳の原因は、ご先祖様の問題です。即刻、ご先祖様のご供養をして下さい。きっと快方に向かうでしょう。

仏教の教え・中身は?

お釈迦様の説かれた仏法は、2500年以上も延々と伝わり現代に受け継がれています。
仏法(お釈迦様の教え・皆さんに知られる法華経や般若心経)の中身は、お葬式でお坊さんが唱えるためにあるものではないのです。では何を説いているのかと言いますと、人間としての生きる道筋を説いてくださっているのです。人はこんな風に生きるのですよ。ということの指導書なのです。決してお葬式のお経ではないのです。
皆さんも一度、一番入りやすい般若心経をひも解いてはいかがでしょう。お勧めします。解りやすい本が沢山出版されていますから自分に一番合った本を選択してください。

相談者来訪。

土曜日の午後3時に相談者の来訪がありました。綺麗な若い女性です。

父親の病気の件・家を建て替える年・月・日などの相談でした。アドバイスさせていただきました。いろいろな話をしながら7時近くにお帰りになりました。また、「何かと相談に乗って下さい」とのことで近いうちに再度来訪するそうです。
皆さんも「来る者は拒まず、去る者は追わず」の精神なので何時でもお気軽においでください。

「怒りの心を断つべし」

仁を積むための八則・・鎌田柳泓より

第一に「怒りの心を断つべし」と鎌田柳泓は戒めている。その真意は何か?

人間だれしも腹が立つときはある。だが、自尊心が傷つけられたからという理由で、発作的に怒ってはいないだろうか?人間が腹を立てるときの大半は、実はこの自尊心が傷つけられたからというのが深層部分の理由なのである。
人間は一生の間、絶えずどこかで自尊心を傷つけられながら生きているものであろう。その時に自分の自尊心の水位を少し低くして、自らどこが足りなかったのかと反省するのが望ましい生き方だと思う。もちろん、抑えるばかりが能ではない。それではストレスが溜まってしまう。だが、その怒りの情を他人にぶちあけるのではなく、自分でうまく処理するのが、賢明な生き方の知恵と言えるだろう。

アメリカのジェファーソン大統領は、「腹が立ったら十まで数えよ。うんと腹が立ったら百まで数えよ」と言っていますが、怒りへの対処の仕方を覚えたいものである。・・・・・・・・と、書いています。怒りへの対処の仕方が出来ると、また一回り人間が大きくなれるような気がします。

充実して生きる。

貫き通してこそーーー「唐書」より

人は何らかの目標をたてる。そのとき、その願いが叶うかどうか、さきくぐりして考えない方

が良いだろう。目標を実現することが肝心なのではない。目標に向かって一歩一歩進むこと

大切なのである。

もともと人間の寿命は約束されていない。人生とは生き続ける事である。生きることに張り合

いを感じること、それが人生の喜びである。到達が問題なのではない。過程こそが人生のす

べてなのである。

と書かれています。人生の喜びを感じていますか?

「一日一善」

一日一善。なかなか出来そうで出来ませんね。仕事関係では何かしらしていますが、普段の

生活行動の中では難しいものです。

今日の一善は達成することが出来ました。

菜園に行くと、隣の菜園の老夫婦が鍬で菜園を耕していました。見たところ大儀そうなので自

分の菜園作業前に耕運機を出してお隣の菜園を耕耘してあげました。

大そう喜ばれてお礼を言われました。お礼にと「赤ねぎ」を頂きました。早速、自家菜園に植

付けました。気分がいいものです。また徳を積ませていただきました。

何でもいいから「一日一善」してみてはいかがでしょうか。そのチャンスは自分の周りに沢山

ありますよ。「徳」を積んで幸せになりましょう。

 

 

 

春分の日(彼岸の中日)

今日は彼岸の中日です。皆さん墓参りはしましたか?

せめて彼岸・お盆くらいはご先祖の墓参りに行きましょう。そして今生きていることに感謝し、

お礼を言いましょう。なぜなら、今の自分がこの世に存在するという事は両親・そのご先祖様

が居られたからです。楽しくても悲しくても、苦労が多くてもご先祖様に感謝です。

人は生まれた時から「苦」の連続なのです。「苦」を乗り越えることに努力することが「人生」で

はないでしょうか。だから人生は「四苦八苦」なのです。

困ったことが起きた時は、ご先祖様の墓前にに焼香しながら「何か良い知恵を教えてくださ

い」とお願いすると、良い知恵を授けてくれることがありますよ。是非、試してください。

瞋恚(怒り)

自分自身、相談者や来訪者に瞋恚についての話などをしていますが、私も煩悩から抜け出

すことは出来ずにいます。今日は仕事の話の行き違いから、あまりに理不尽なことを言われ

てしまったので、つい頭に血が上り電話で怒ってしまいました。(ーー゛)

まだまだ修行が足りないですね。気を付けます。

最近思うことは、ツイッターで友達承認依頼がありますが、承認しなければ相手のプロフィー

ルが分からないというのです。友達になりたかったら自己紹介は当たり前ではないでしょう

か。このご時世は違うのでしょうかね?理解が出来ません。

皆さんのご意見をお聞かせください。

 

 

子供の暴力行為。

子供の暴力行為の相談があります。なぜ暴力をふるうのか?家族は困ってしまっています。

原因は少なからずあります。本人は知らずのうちに暴力行為をしてしまうのです。

一番に考えられるのはご先祖様です。2〜3代前のご先祖様に同じような人が居るのです。

相性に良い子孫に現れるのです。このような場合は、しっかりそのご先祖様のご供養をする

事です。あの世で償いをさせられて苦しんでいるのです。

人は死んでしまうと「無明」と言って生前に行為を全て忘れてしまうと言われています。現世

での行為に対する償いをさせられるのです。本人は無明ですから、なぜ償いをさせられるの

か分からず苦しんでいます。それをご供養で教えてあげることです。ご供養が本人に届けば

スッと治ってしまうものです。

心の優しい人

昨日、相談に来られた方は東京から来ました。水戸駅まで迎えに出てあげました。

地味な服装のお嬢さんです。いろいろ大変な悩みを抱え、乗り越えようと頑張っているのですが、自分自身がどうすればよいのか分からなくなったようです。
いろいろお話を聞いていると、聡明でしっかり者です。美人です。心もお顔も優しい方でした。いろいろな人がいますが、美形で優しい心の持ち主は少ないものですよ。午後1時にいらっして夕方5時のころまでお話をしました。帰りは顔付が若干明るくなったように感じました。水戸駅までお送りして帰ってきました。
感謝の気持ちを忘れず・徳を積み・笑顔で毎日を送って頂ければ必ず運命は開けてきます。
チョコレートのお土産を頂いてしまいました。有難うございました、美味しかったです。

 

快方に向かってくれると嬉しいです。

引きこもり、登校拒否の少年がやっと快方に向かって来ました。通信制の学校にも通い始め進級試験にも参加し、夜遅くまで勉強したそうです。また、アルバイトにも行くそうです。
お母さんからの電話でした。本人からもメールがあり頑張っている様子です。
このまま順調に経過して普通の状況に復帰できることを祈るばかりです。ガンバレ。13日には東京から相談者がお見えになります。水戸駅まで迎えに出ることにしています。
今夜は友人のことで相談に乗ってくださいと訪問者がありました。友人は聞く耳を持たず、自己中心的で感謝の気持ちを持ち合わせていないと言います。友人は60歳近いそうです。
一度会社をダメにしているとのことですが、この性格からではないかと思われます。再度、会社を立ち上げようとしているようですが、課題は多いようですね。
人の話を素直に聞く耳を持ち、人に対する感謝の気持ちを忘れない、そして「我」を捨てなければ何事も上手くは行かないでしょう。しかし、60歳近くになると、なかなかその性格を変える事は難しくなってきます。その性格で今まで過ごして来たのですからね。

感謝の気持ちを忘れずに。

新春を迎え結婚の相談が2件ありました。結婚の時期や新居引越し時期の相談と一件は結婚相手と相手先の両親家族の問題です。結婚は男女とも一生の問題です。
特に女性にとっては一生涯の大切な決断となります。出来るだけ双方とも幸せな結婚生活が送れますようにいろいろなアドバイスをさせていただきました。
常に双方とも全てにおいて感謝の気持ちを忘れてはいけません。

お祝いごとは日の良い日に

最近は祝い事でも土日にする方が増えています。またその日が仏滅や三隣亡でもする方が居ますが、如何なものでしょうネ。
昔から祝い事は日の良い日にするようにと言われてきました。出来れば大安・友引などの日を選んで行いたいものです。暦の細部を見ると大安や友引などでも良くない日があります。旧暦を使って見てみることもお勧めです。

以心伝心。

嫁と姑の問題相談がありました。よくある話です。

何かと態度・意見や考えなどの違いから互いに牽制し合って旨く意思疎通が出来なくなってしまいます。
みんなそれぞれに違う環境で育ってきたのですから互いに全て上手くゆくはずはありません。
「この嫁とは何となく上手く付き合えないな」「この姑とは難しいな」などと互いに心にあると相手にすぐに伝わるものです。これが以心伝心です。
友人同士でも、「この人は嫌だな」、「この人は好きだな」、などと心にあると、その気持ちはすぐに相手にわります。
人の心は相手にすぐ伝わることを心してください。そして、それを変えるのは自分自身です。相手のせいにせずに自分が変われば相手も変わります。

苦を滅す八正道。  千 玄室。

新聞のコラム「一服どうぞ」に裏千家前家元千 玄室さんの話が載っていましたのでご紹介します。
原文のまま。
仏教の教えに八正道がある。それは正見・正思・正語・正業・正命・正精進・正念・正定で、これは釈尊の四苦八苦と共に人間の生き方を示されたものである。「苦}を滅する方法として、この八つの正しい道を説かれた。
四苦とは生・老・病・死で人間は生まれてから死ぬまであらゆる苦を背負っている。だからこそ少しでもその苦を自分なりに理解してそこから抜け出すために、八つの道のどれかでも実行することが大切だと言われる。
正見は何事も正しく見る、すなわち素直な心でものを見る努力。
正思は自己本位でなく、不平不満、邪心という我を捨てること。
正語は自分に都合の良い言葉を用いて人を陥れたり、悪口を言うことの無いように。
正業は出来るだけ正しい行動や行いをする。そして正命は正しく生きるために自分自身を叱咤し本道を歩む。
正精進は努力をする。物事を投げやりにしない。正念はたえず自分の心が曲がってないか顧みる
心を持つこと。
正定は信念をしっかり持って、あっちこっちへふらふらしない。こうした教えは生活する上に
おいて大切な教えである。

こういうことはお互いに分かりながらも、浅はかな考えや我が先に立ってなかなか実践できないことである。
それとともに「気づく」、要するに「気が付くこと」が大切だ。それには気配りや、いうなれば心がどれほど人のために生かされるかが問題となる。
昨年秋、私はウクライナのキエフを訪れ、首相や多くの老若男女に一のお茶を差し上げて、日本の文化と伝統を紹介する機会を得た。その時にチェルノブイリの原発事故で不幸にも被害に遭った被害者の会代表の4,5人が会場に来られ、茶会終了後に担当者から紹介を受けた。いずれもご婦人で歳をとっておられたが、そこで被害状況を写真や資料で説明を受けた。そして、「福島の震災で私たちと同じように故郷に住めなくなった方々にお見舞いと激励を申し上げたい。そして今いただいた一のお茶のすがすがしい緑の色が、どれほど私たちに生きる力を与えてくださったか。有難いことでした」とおっしゃった。
手を握り締め再会を約した。苦を背負い、苦を乗り越えて行こうという勇気と、人間としての生きる在り方を示していただいたことは、まったく正定の教えではなかろうか。
若き頃、大徳寺館長の後藤瑞厳老師のもとで修業したが、ある時「平常心是道」と訓された。きわめて分かりやすいと即座に「わが道あり」などと申した。もちろんそれに対して「その道は如何に」とやり返された。即座に「茶の道」と申すと老師はうなずかれた。特殊な目で見られる家元の座は、まったく辛いものであり、修道を怠ることはできない。私にとって八正道は心の支えとなっているが、どんな方にもこの教えを知っていただき、少しでもその一つを自分の目標にされたらと思うのである。  (せん げんしつ)

素晴らしい話でした。みなさん如何でしたか?

人生の味わい「苦労のうちに楽しみを」

苦労のうちに楽しみを・・・・・・「菜根譚」

今、時々見開いている本に載っていました。

静中の静は真静にあらず。動処に静にし得来りて、わずかにこれ性天の真静なり。

楽処の楽は真楽にあらず。苦中に楽しみを得来たりて、わずかに心体の真機を見る。

「意訳」

環境を静かにして、ようやく心の静けさを保つというようではまだまだ。活発な活動の中でなお心の静けさを保ってこそ、道を体得した者と言えよう。
楽しい場所で心を楽しませるというのではまだまだ。苦労の中で楽しみを見出してこそ、心の不思議な働きを生かした者と言えよう。

「解説」

人間は精一杯仕事をして、今日の自分には何も言うことがない、よくやったと、自己評価したときに、心の平静を得ることができる。
この自己評価が人生では大切で、人里離れ、社会との関係を断っていては自己評価はできない。なぜなら、自己評価といえども、あくまで社会との関連にあっての評価であるからだ。
そして、その一日にいい緊張感があった時に、充足感を味わう、それが人生の味わいではないだろうか。
というように記されています。緊張の中の充足感・・・・・味わったことありますか?

禅における真理とは。

この瞬間を生きる・・・が禅の教え。

新聞に桝野俊明さんのコラムがありました。禅宗の僧侶で庭園デザイナーです。こらみの中の一説を紹介します。
禅では人間の計らいごとを超えたもの、季節のうるおいなど変えようがないものを真理といいます。企業や社会の中にいると、相手のためと思ったことでも、人間の計らいごとを超えていない場合が殆ど。自然界の大きな中で物事をとらえようとすれば、何をなすべきか、今やらなくてはいけないことが見えてきます。
「いつやるの?今でしょ」という予備校の先生の言葉が話題になっているそうですが、今なすべきことに集中するというのは、禅の生き方そのもの。「而今(にこん)」といいます。一瞬一瞬の積み重ねが、一生を作り上げてゆく。極端にいえば、一呼吸の間に生きて、呼吸が終われば過去。失敗したことは引きずりがちだが、終わったことは取り戻しようがない。いつまでも悔いていないで、なぜ失敗したか原因を明らかにし、同じような場面に出くわしたら間違いを起こさないようにすればいい。悔やんでも、結果が変わるわけではないですから。
物事には原因があり、縁が訪れて因縁が結ばれ結果が生じる。いい縁を朝に結んでおき、蓄積されるといい仕事もまわってくる。チャンスはみな平等にやってきます。寝坊して準備が出来ていなかったら、チャンスは通りすぎてしまい、因縁が結べないのです。   と書いてありました。


一人で訪ねてきました。

7月の5日に少年が一人電車1時間掛けてで水戸まできました。駅まで迎えに出て昼食をとり、家でいろいろ話ししました。
メールでは、いろんな悩みを聞いてほしいとの事でしたが、気分転換が出来て晴れ晴れとしたせいか悩みは消えてしまったとのことです。明るく笑いながら話す姿は通常の少年と何の変りもありませんでした。
慈冶医大で診察を受けた結果は、うつ病ではなく「考えすぎ」と言われたそうで、小父さんの言うとおりだったと笑っていました。「小父さんと知り合わなかったら自殺していたかも」と言われた時はビックリでした。
菜園や涸沼などをドライブしながら話している姿はやはり少年ですよ。涸沼は初めてでかなり関心が湧いたようです。帰りは車で少年の家の最寄りの駅まで送っていきました。お母さんから何回も電話が入りましたがいかにも電車に乗って帰途についているような話をして、帰ってからが面白い展開になるなどと大笑いしていました。もう大丈夫でしょう。将来の事や親にはあまり心配掛けない、などの話もチョットしてあげました。
「また来てもいいですか」というので何時でも出ておいでと言って別れました。もうチョットで心配なくなるでしょう。
翌日、お母さんから電話があり「たった1日でこんなに状況が変わるんですね」とビックリしていました。「まるっきり元に戻ったような感じです」とお礼を言われました。

登校拒否。

現在、登校拒否の高1の男子の問題で相談を受けています。県立高校へ入学したのですが殆ど登校していません。対応に苦慮しての母親からの相談です。
本人は病院でカウンセリングを受けたところ鬱病と言われて薬をいただき服用したところ酷い副作用に見舞われて服用を止めたそうです。正解です。
本人に会って話をしたところ鬱病の気配はありませんでした。鬱病ではないと伝えてあげました。私と一対一で話すときは笑顔があり何の問題もありません。悩みの原因も話してくれました。悩みは、「自分は何の為に生きているのだろうか」でした。
悩みに対して中学校の先生
も親も何度聞いても返答が出来ずにいたようで、人間不信になってしまったようです。悩みに対する回答をしてあげたところ納得ししたようです。完全とは言えないまでも安心したようです。母親にも対応の仕方を何度も説明したのですが、やっぱり心配で毎日のように電話があります。しかし、かなり回復してきた様子で、話もするようになったようです。今度一人で私の所へ遊びに来るようです。
本人の悩みについては、なかなか返答する事が出来る人は少ないです。そこで悩み過ぎて何も手につかなくなったようです。真面目な人間の思春期ですね。もう少しの間見守ってあげれば完治するでしょう。

人の評価。

社会の用に資するために人の技を用いるとき、評価すべきはその能力なのか、それともその人の徳なのか、例えば、政治家を評価するときに、その政治家の政策の実績を見るべきなのか、清廉潔白であることを重視すべきなのかということである。私は前者だと考える。家に表口と裏口があるように、人間にも表口と裏口がある。裏口の門構えだけでその家の門構えを評価できないように、その人間の裏口ばかりに目がいって、肝心要の表口での活躍を評価しないのは正しいと言えないばかりでなく、評価する人自身の器量の狭さをも意味している。
将の器ーー「孔叢子(くぞうし)」 古今東西の珠玉のことば・・より。
良く国会予算委員会などで野党議員が個人のプライベートの問題を出して追及していますが、この言葉に置き換えると追及する議員の器量の狭さを垣間見るようですね。

幸・不幸は感性の問題です。

「四苦・八苦」という言葉があります。現在では日常用語にも使われていますが、もとは仏教の言葉です。
お釈迦様は「人生は苦なり」と言われました。その苦を「四苦」と「八苦」とに分けたのです。
「四苦」は「生・老・病・死」。「八苦」は愛する者との別れ・憎い人との共存・求めるものが得られない不満・自分の身と心が思うとおりにならない現実。を言います。
「苦」とは不幸と言えるでしょう。「苦」に対する「楽」は「幸福」ということになるでしょう。本来「幸」も「不幸」も共に感性の問題であって、事実の比較で判断するものではありません。経済的に豊かであれば「幸福」かというと、そうとは限りませんね。裕福な人でも問題や悩みは抱えています。現に私の所へも裕福なお金持ちの人も悩みを相談に来ます。
感性の問題として「生・老・病・死」を捉えますと、もとから「苦」と定まっているわけではありません。
「生・老・病・死」は命の有様なのです。生まれて死なない「命」がないように。「私達は「生」を喜び「死」を嫌いますが「生・老・病・死」のない「命」はありません。
お釈迦様が「生・老・病・死」を「苦」と説かれたのは、「生・老・病・死」を「不幸」と感受することの愚かさを知らせてくれたのです。生まれてきたこと・老い・病・死を不幸としか感じられない、愚かで誤った感性。それを明らかにされたのです。

「因我にあり」

いろいろな相談がありますが、特に対人関係や嫁舅の問題などは困った問題です。対人関係などは自分が変わらなければ相手も変わりません。そのことを分かっていない方々が多いです。
自分の事だけを考えてしまうのでしょうね。全部相手が悪いと思ってしまうのです。問題はどこにあるのか?を考えますと、問題は自分に合った事しか起こりません。自分で殆どの事が解決できるのです。まさに原因は自分にあるのです。「因我にあり」です。
一度そう思って考えてみてください。分かったら実行してください。問題は解決しますよ。

 

足るを知れば辱められず・・老子

名と身と孰れか親しき。身と貨と孰れか多なる。得ると亡うと孰れか病になる。
ナ ト ミ ト イズレカ シタシキ。 ミ ト カ ト イズレカ  タナル。  エル ト ウシナウト イズレカ ヘイニナル。

甚だ愛すれば必ず大いに費やし、多く蔵すれば必ず厚く亡う。
ハナハダアイスレバ カナラズオオイニツイヤシ、オオク ゾウスレバ カナラズ アツクウシナウ。

足るを知れば辱められず、止まるを知れば殆からず。以て長久なる可し。・・・・・老子。
タルヲシレバ ハズカシメラレズ、 トドマルヲ シレバアヤウカラズ。 モッテ チョウキュウナルベシ。

足るを知れば辱められない。止まるを知れば危険に陥ることもない。足るを知り、止まることを知ることによって、人は長く久しく、健康に保つことが出来るのである。    と言う事だそうです。
又、編集者は、名誉や財産は生命に比べれば価値のないものだと説く老子の教えに立たなくとも、それらに執着することは賢明でないことは分かる。というのは、名誉・財産はこの世において公平に与えられるものではない、元来不公平なものであるからだ。そんな不公平なものにいたずらに執着するのは、心を労するだけで益少なしである。むしろ、持たなくてもいい不平・不満を生じさせ、その不満顔が人間関係をも悪化させてしまう。
こういった不公平な名誉・財産に対しては、少ないと言って現状に不満を持つのではなく、あったらいいな、ぐらいの軽い希望として捉えるのが、賢明な姿勢と言えるのではないかと思う。  と言っています。

老子の教えってすごいですね。

 

人は誰しも「鬼」になる

2月10日の新聞のコラム「一服どうぞ」で裏千家元家元 千玄室さんの記事がありました。表題は・人間だれしも「鬼」になる・です。
節分の由来が書いてありました。鬼は実際に居るわけではない。自分自身があるときは鬼になっているのである。心の中で善と悪とが闘っている毎日であることを省みれば、何かの機会に悪を払い、善に向かうと言う決意を示さなければならない。
現代人はすべて何らかの悪鬼になっている。正しいと思っていても自分のうぬぼれであり、かえって人に迷惑をかけていることもある。
全く私たちは何時も嘘いつわりの世界に常在しているのであり、自分をなだめすかして生きているようなものである。一度豆を自分にまいて、自分の中に棲む気弱さや悪を除けば如何なものだろうか。
あるとき悟りを開こうと努力していた一人の僧が巴陵(はりょう)という禅師に「如何なるか是提婆宗」と問うた。このインドの提婆尊者は仏教外の信者だったが、悟るところあって仏教に転向した人である。そして大徳(徳を積んだ人)と呼ばれていた。
この問いに対し禅師は「銀椀裏に雪を盛る」と答えた。よく善の問答で「如何なるか是仏法」などと言う。それと同じだが、かつての洞山禅師はそうした問いに「銀椀裏に雪を盛り 明日に鷺(ろ)を蔵(かく)す」と答えられたが、その前句を巴陵は用いたのである。
真っ白な銀の椀に真っ白い雪を盛ればどちらが椀か雪か分からない。見分けがつかない。それでは一つになっているかというと、そうではなく雪と椀とはあくまでも別のもの。すなわち自分と他人とは一体ではない、不一不二を示す。
人間は集ずれば差別し争いをする。しかし、雪も銀椀もない無の真実を知ることによって「我」が存在するのであることを訓されたのである。
もし気に入った者同士が集まったとしても何かの機会に分裂する。信や情や絆がといってもそれが消失してしまうのが、人間社会である。今年は豆を周辺にまいて己をかえりみる機を作ることが大切な事である。

と言うように書かれていました。何か身につまされるような言葉ですね。

 

初詣での予定です。

一月も終わりに近づきました。なのに「初詣で」とは何だろうとお思いになる方もおられると思います。
暦上ではは節分を過ぎて四日の立春からが平成25年となりますので、私は毎年二月四日過ぎてから詣でます。干支も2月3日までは前年の干支となりますよ。初詣では柴又帝釈天に詣でます。帝釈天は神社ではなくお寺さんです。帝釈天は寅さんで有名ですネ。
又、天の神様の中では一番位が高いと言われています。私は亡くなられた師匠に毎年帝釈天にお参りに行くようにと言われて、かれこれ10年は経ちます。今年も時間を見つけて参拝に行きます。

皆さんも一度如何でしょうか?

   

新年おめでとうございます。

新年を迎え新たな気持ちで出帆しましょう。
私は、例年通り家族で氏神様(吉田神社)へ初詣でしました。家族一同の安泰を祈願してきました。その足で先祖の墓参りをして墓前に新年の挨拶をしてきました。
皆さんは行かれましたか?自分が現在存在するのは両親・ご先祖様のおかげです。10代さかのぼると1024人のご先祖様がいらっしゃいますよ。
出来れば墓参りをしてください。
今年も皆さんにとって幸多い年でありますことを祈願いたします。

一年間ご訪問有難うございました。

多くの皆様に感謝申し上げます。

来年も頑張って皆様のお役にたちたいと心新たに思っています。

今年一年有難うございました。

皆様にとって2013年が幸多い年でありますことをご祈念申し上げます。

問合せ有難うございます。

東京の若いご夫婦から電話で問い合わせがありました。
内容は、流産でお悩みとのことです。ちょっとのアドバイスはさせて頂きました。
後日時間を作って訪ねて来るとのことです。お会いして出来るだけアドバイスするつもりです。
以前にも7回流産した方がいて一昨年男の子を無事出産しました。アドバイスのお礼に来られたことがあります。
どんな相談でも無料ですのでご遠慮なくどうぞ。

愛憎

仏教の「四苦八苦」の中の八苦の中に「怨憎会苦」(おんぞうえく)という言葉があります。意味は、怨み憎む者に会う苦しみと言う事です。
自分を憎み、嫌いだという相手への思いは、必ず相手にも反映して、自分のことを憎み嫌います。
相手がなぜ自分にとって嫌いなことをするのかということを考え、相手の立場に立って想像力を働かせれば、その人が生まれつき愛されない環境に育ったとか、あるいは、ずっといじめにあっていたとか、欲求不満の固まりであるとか、そういう事がわかります。そうすれば、ただ憎むよりも哀れみを感じることが出来ます。

憎しみを哀れみに変えることが出来れば自分も救われます。
普段、誰でも心で思われることがあるでしょうが、相手を哀れみの心で接すれば、いくらか楽になるのではないでしょうか。

 

 

苦しみの根本はは

人間として生きている以上、自分の心の中の煩悩によって苦しまなければなりません。

煩悩=欲望が苦の原因なのです。煩悩を取り払えば苦から逃れる事は出来るとわかっていても、人間は死ぬまでそれを取り払えることは出来ないでしょう。

煩悩の中身についてお話します。

煩悩貪、瞋・癡(とん・じん・ち)の三つです。これを三毒と言います。

貪欲(どんよく)・・自分の好む対象に向かって貪り求める心です。物に限らず、地位・名誉・富・性愛すべてに貪が作用します。人間の欲望には際限がありません。何事も小欲で「足るを知る」という心掛けが必要です。

瞋恚(しんい)・・瞋(じん)とは、自分の心に逆らうものに対して怒り怨むことです。怒り怨みを持てばその対象に敵意を抱くことになります。

愚癡(ぐち)・・癡とは愚かさですが、仏教でいうおろかさとは、教養が無いことではありません。差別する心、自己中心的な考えな人を癡愚(ちぐ)な人と見るのです。
簡単に説きますと、ねたむ・怒る・愚痴るこれが三毒です。誰もが何か一つ毒を持っていませんか?

三毒を取り去ることは難しいことですが、何か一つでも取り去ることが出来れば良いとしましょう。

人は練磨により仁となるーー道元

人は練磨により仁となる。  道元

玉は磨くことで初めて価値が出る。人も自らを磨き鍛錬して初めて真の人となる。世の中に初めから光り輝いている玉があるだろうか。初めから優れた働きをする人がいようか。とすれば、必ず磨き、鍛錬すべきである。決して能力や素質が無いと自らを卑下して道を学ぶ努力を怠ってはいけない。

 人生においてもう一つ大切なのは、自分を磨いてくれる師匠を見つける、自分にとっての伯楽を見つけると言う事も欠かせない。

もちろん、それは運命的な出会いや巡り合いによる場合も多いが、自らそういった人を求め続けていればそういった伯楽と巡り合えるチャンスも増える。又、いまだに自分を完全に磨いてくれる伯楽が見つからなかったとしても、自分を認め励ましてくれる友人も立派な伯楽であり、そんな伯楽な友を持つことは人生を味わい深いものにしてくれる。

と言っています。あなたも自分の師匠や伯楽な友をもっていますか?

 

 

充実して生きる

貫き通してこそ・・・「唐書」

人は何らかの目標を立てる。その時、その願いが叶うかどうか、先くぐりして考えない方が良いでしょう。

目標を実現することが肝心なのではない。目標に向かって一歩一歩進むことが大切なのである。

もともと人間の寿命は約束されていない。

人生とは生き続ける事である。生きることに張合いを感じること。それが人生の喜びである。

到達が問題なのではない。過程こそが人生のすべてなのである。

以上のように記されています。 あなたはどう思いますか?

目標に向かって日々努力することが人生のすべてであると言う事のようです。

命名

二人目の子供が10月に生まれるので名前を選んでほしいとの相談がありました。一人目も相談受け選んであげました。今度は男の子だそうです。

10月に生まれるお子さんが3人います。名前の相談を受けています。先月相談に来られたお嫁さんのお父さんは一つの名前だけ書いてきましたが、これがズバリ良い名前で今迄に一つだけの名前でこんな良い名前はありませんでした。若干の問題はありましたがそれは、将来自分で変える事ができる事なのでその旨書いてあげました。大きくなったら子供に持たせるそうです。

命名はその子の一生を左右するかもしれない、などと言われますので慎重に取掛っています。

彼を知り己を知ればーーーー「孫子」

「敵を知り己を知れば・・・・・」として知られる格言の原点。

敵を知ることは難しいが、己を知ることはもっと難しいことです。「言うは易し、行うがは難し」ではないがもし己を十分知ることが出来るなら、それだけ傑出した人物と言えるでしょう。

岩波茂雄が自分と他人を比べ、その力を計る時の心構えについて語っている。

「相手が自分よりチョット上だなと思った時はものすごく上だなと思え、相手が自分と同じくらいだと思った時は相当上だと思え、相手が自分よりかなり下だと思った時が丁度自分と同じくらいなのだ」

この言葉は、人間がとかく自分を過信し過大評価してしまいがちなのを戒め、他人を評価するときのポイントを明かしている。
つまるところ、絶えず自分の過信を抑え調整する意志力がカギになってくるのだろう。と、言っています。岩波茂雄・傑出した人物ですね。  自重・自重・・・・。

宮本武蔵

われ、事において後悔せず」宮本武蔵の言葉の一節です。

人間が成長するのは、すべてについて反省するからである。過去現在における自分の言動を、顧みて静かに点検する。そして今後は過ちの少なからんことを願う。
これからはもっと賢く世に生きようとする。つまり、反省は前向きだから意味があるのです。

反省の度が過ぎて後悔となる、後悔の念があまりに深すぎると、だんだん自己嫌悪におちいる。そしてだんだん落ち込むのです。後悔は未来へのバネにはならない。後悔は人間を奮い立たせてくれないのです。

明日に向かって反省はするが、昨日にこだわる後悔に沈み込まない。ここの兼ね合いに処する知恵が、人生に意欲を生むでしょう。

と、書かれています。如何ですか?

「ありのままの自分」

今、「仏教対人心理学読本」小池龍之介著。を読み始めました。

現実の中で「ありのままの自分」をさらけ出して生きる事は不可能である、と説いています。

常に人は、本当の自分を抑えて建前を作って周りに自分を合わせて生きているのです。本当の自分をさらけ出せるのは恋人か家族以外にはないようです。
この建前(嘘の自分)のおかげでストレスがたまるような気がします。本当の自分をさらけ出せる環境に中に居られたら、こんな気楽なことはないでしょうね。

面白い本ですので読みこんでゆきたいと思います。   ではまた後で

むずかしい相談。

今回初めて、どうお答えしたらよいか返答に困った相談がありました。

「広汎性発達障害」でお悩みの相談です。

ネットで調べましたが原因ははっきりしないようです。「自閉症」の症状の延長のようです。

実社会への対応が出来なくなってしまうようです。友人や近所の付き合い等が苦手のようで孤独に陥り自己中心になってしまうような症状のようです。結果的に「うつ病」のような症状を患うことになるようです。

いろいろな病状があるものですね。適切なアドバイスができず、困りました。

以後、勉強してみようと思っています。

どなたか、ご存知の方は是非ご連絡を頂きたいです。お願いします。

己に克つ  西郷隆盛

何事にも成功するために心がける事、それは「己に克つ」ことである。

西郷隆盛の「己に克つ」について

道は天地自然の道理であり摂理であるから、学問の修得は敬天愛人を目的とし、自己修行には己に克つということを絶えず心がけることだ。己に克つための鍵は、論語にあるように「あて推量をしない、無理押しをしない。固執しない。我を通さない」ことだ。
すべからく人は己に克つことによって成功し、己を愛することによって失敗する。
成功するまではよく己を慎み、事に対しても慎重に行うから成功もし名も顕れてくる。ところが、成功して有名になるに従って、いつの間にか自分を愛する心が起こり、おそれ慎み自らをいましめるという気持ちが緩み、おごりたかぶる気分が生じ、その成功した事業をたのみに自分には何でもできるという過信のもとにまずい仕事をするようになり、ついには失敗してしまう。これらは皆、自ら招いた結果である。

だから、絶えず己に克ち、人の見ていないところでも聞いていないところでも自分を慎み戒めなければならない。

と、書いています。私も、もう一度「己に克つ」ために反省しようと思います。

 

現代社会とうつ病

何故こんなにうつ病になってしまう人が多いのか?考えてことはありませんか。

うつ病は本当は病気ではないのです。通常私どもはは「贅沢病」と言っています。

裕福な方が掛るのです。ギリギリの生活をしている人ははかからないのです。

それは、悩んでいられない生活環境にあるからだと思います。今を働かなくては生活ができないからです。

生活優先で悩んでなんかいられませんからね。

「うつ病」これは現代社会のひずみで起きる問題です。

親しい友人がいない。話し相手がいない。相談する人もいない。これは、現代社会が利己主義社会だからです。他人はどうでもいい、自分が優先、人の事なんかかなっていられない、などの風潮が蔓延っているせいです。

皆さん、親しい信頼できる友人を一人は作りましょう。そして友達をたくさん作るようにしてください。

理想の人生

人々にとって理想の人生とは何でしょうか。

「道元」の言葉に 「舟のほかに我はなし」と言う言葉があります。

現代風に解釈しますと自分の人生を考えるときに、「生きている」という面からだけ考えてはいけない。「生かされている」という面も忘れてはならない。それがないと傲慢不遜な人間で終わってしまう。

「生きている自分」と「生かされている自分」の二つの面から自分を捉え直し、それでは自分はどう生きたいのか、一方で社会の為にどう役立ちたいのかを考え、出来るだけその二つが融合できるように人生を歩んでいくのが理想の人生と言えよう。手(チョキ)    と言う事です。皆で理想の人生を歩みたいものですね。

聞く耳を持つ

聞く耳を持つことは大変重要なことです。

聞く耳を持たないと人生が暗転します。

年上の人の話や、周囲の人のアドバイスには素直に耳を傾けて聞くことが大切です。

そして自分なりに取り入れてゆけばいいのです。

話は真剣に聞くことが大切です。聞いたら実行することです。これで人生好転するのです。

ある方が乳がんになりました。知人がいろいろと経験話をしアドバイスしたそうですが、一切話を受け付けなかったそうです。数か月後亡くなったそうです。その知人はたいそう残念がっていました。

少しでも聞いてくれたらそして行動してくれていたらと悔しがっていました。

どちらかと言えば高学歴の人が聞く耳を持たない方が多いようです。何ででしょうかね?

皆さんも「聞く耳を」持ってください。幸せになるために。

 

青春

青春・・・・・・・・サムエル・ウルマン

青春とは人生のある期間を言うのではなく心の様相を言うのだ。逞しき意志、優れた創造力、もゆる情熱、怯儒を却ける勇猛心、安易を振り捨てる冒険心、こういう様相を青春と言うのだ。
年を重ねただけで人は老いない。理想を失うときに初めて老いがくる。歳月は皮膚のしわを増すが、情熱を失う時に精神はしぼむ。

年は70であろうと、16であろうと、その胸中に抱き得るものは何か。

曰く、驚異への愛慕心。空にきらめく星晨、その輝きにも似たる事物や思想に対する欽仰、事に処する剛毅な挑戦、小児の如く求めて止まぬ探究心、人生への歓喜と興味。

 人は信念と共に若く  疑惑と共に老ゆる。

人は自信と共に若く  恐怖と共に老ゆる。

希望ある限り若く    失望と共に老い朽ちる。

大地より、神より、人より、美と喜悦、勇気と壮大、そして偉力の霊感を受ける限り人の若さは失われない。

と書いています。老いて益々元気に生きたいものですね。

感謝の気持ちを忘れている

相談者の中には、自分が病気になったのは母親のせいにして恨んでいる人がいます。

母親が切迫流産しそうになり、病院で子宮をクリップして持ちこたえて無事生んでくれたのだそうです。

その処置が原因で病気になった、と自分よがりに思い込み母親を恨んでいたというのです。

それだけ母親は苦労して我慢して無事に生んでくれたのです。ですから本人はこの世に存在するのです。

もし流産していたら本人はこのよに存在しないわけです。それを思ったら母親に感謝するだけで、恨むなんてとんでもないことです。 (-_-メ)

皆さんの中に親を恨んでいる人がいたら、それは大きな間違いです。両親・ご先祖様がいたから自分はこの世に存在するのです。もしそういう人がいたら即、改めてください。

すると、顔も柔和になり気持ちも落ち着いて、何事も上手くいくようになりますよ。(^_^)

この世に生きている事に精一杯感謝して生活してください。手(チョキ)

感謝の気持ちを忘れると何事も上手くいきません。

相談依頼「うつ病」

今日、電話で相談依頼がありました。社員の「うつ」の相談です。月曜日に来訪されます。

3月末にも神奈川県からわざわざ相談に来られたご夫婦がいます。

春は「うつ」の相談が多いです。

神奈川から来られた方は、無事会社に出勤できるようになったと連絡をくださいました。長い間病院へかかっていたそうです。良かったです。摩訶不思議ですね。今回も人の為になりました。

五十にして天命を知る(論語)

「五十にして天命を知る」・・・・・・論語

子曰く、吾十有五にして学に志す。

三十にして立つ。四十にして惑わず。

五十にして天命を知る。六十にして耳順う。

七十にして心の欲する所に従えど、矩を踰えず。

「意訳」

孔子は言った。私は十五歳ころから学問を志した。三十にして、その学問についての見識を確立した。

四十歳の頃では理が明らかになり、物事に惑うことがなくなった。
五十歳になって、天から与えられた使命を自覚した。
六十歳の頃は、何を聞いても分かるようになったし、差しさわりがなくなった。
七十歳になっては、心の欲するままに行うことが、いつでも道徳の規準に合って、道理に違うことがなくなった。

「五十にして惑わず」聞いたことがある言葉ですね。この言葉を見聞すると孔子の偉大さが伝わってきますね。我々もこう生きたいと思いませんか。

全てのものには存在する意義がある。

毎年のように悩んだり、苦しんだり、世をはかなんで自殺者が3万人以上もいると言うニュースを見ます。この世の中に、せっかく生を受けて生まれてきたのに悲しいことであり罪なことです。

この世に存在するもので不必要・不要なものは何もありません。

人間をはじめとし、植物・動物・器具・道具など必要であるから存在するのです。

器具や道具は壊れたり古くなって使われなくなってしまうまでは必要なものです。

自分は「この世の中で必要とされていない」などと思い詰めて自暴自棄になったり自殺したりすることは大きな間違いであり罪作りです。

人間はこの世に必要とされない場合は、母親にお願いして胎内に宿っても無事に生まれてくることは出来ないのです。流産したりして生を受けられません。

必要とされるから生まれてこられ現在も存在するのです。

その人、ものには個々にこの世に中での役割があるのです。特に人間は個々の特徴があります。

自分に与えられた範囲の中で努力して生きてゆくことが大切なのです。今現在置かれている環境の中で精一杯努力すれば必ず光が見えてきます。

いろいろとお悩みはあるでしょうが、何事も自分に合った問題しか起こりません。そして自分で解決出来ない問題はないと言われています。

もう一度問題を振り返って再考してみてください。ほとんど自分の行動・言動の結果であることに気が付くことでしょう。

私は死ぬ時のことを考えますと、年を取ってこの世で必要なくなった時(耐用年数)が死ぬ時だと思っています。

極楽と地獄の岐かれ道。

極楽(しあわせ)と地獄(ふしあわせ)の岐かれ道。

「幸福への道」            「不幸を自分で造る人」

人も自分も尊敬できる人。         心の暗い人、不愉快に暮らす人。

常に反省し素直に改める人。       絶えず不満や愚痴の多い人。

何事も善意に解釈する人。         陰口が多く人の和を乱す人。

孝心深い人、恩に報いる人。        信仰心がなく自我の強い人。

親切で人の為によく尽くす人。       心が狭くすぐ腹を立てる人。

恥を知る人、偽りのない人。        利己的気侭自分本位の人。

生きがいを求め精進する人。        慾の強い人、自惚れの強い人。

夢と希望に笑顔で生きる人。        義理より権利を主張する人。

 

など、いろいろと書かれていますが、あなたはどちらの道を進みますか。

いろは

「いろは」とは物事の基礎、家の土台。あまり面白いところとは思えない。

何事につけ基礎訓練なんていうのは退屈です。地味で、しかし、奥が深いのが厄介です。

でも、ここをすっぽかして、楽しいかっこいい応用編から入ろうとしても無理です。

横着や焦りは禁物です。物事をきちんと修得するには、やっぱり「いろは」が大切です。

急がば回れ。最初は足腰を鍛えて、かまえが出来る様になるまでは「いろは」を学ぶ。

その後やっと、醍醐味に近づける長い道が見えてきます。その道すがら、いつでも忘れてならないものは「いろは」です。

修行の最後のやっとわかるのも「いろは」です。と言っています。

物事には順序と言うのがあります。順序を踏まないで何事かすると上手くはゆきませんね。

やはり「いろは」でしょうか。

相談事あり。

父親はやはり子供の事がが心配ですね。

娘さんの付き合っている男性についての相談がありました。親としてはあまり好ましく思ってない様子でした。娘さんとの相性を知りたいとのことでお出でになりました。

次の日に、娘さんを連れて再度来てくれました。結婚は一生の問題です。それも相手によって左右されます。できるだけ幸せになっていただきたいと思い、お話をさせていただきました。納得しておかえりになった様子でした。幸せになれることを祈ります。

相談事も私の分野でないことがあります。今回、別の方からの相談もそうでしたので、その分野に詳しい知人に相談を受けてもらいました。

なんでも相談にのりますが、私の分野でない問題はその道の専門家を介して相談を受けていただいています。

世の中、問題や悩みを抱えてない人はいないようですね。

悩みや困りごとは人に聞いてもらうだけでも気分が晴れるものです。

相談ごとをを聞いてあげられる私は幸せです。感謝・感謝です。手(チョキ)

見ザル・言わザル・聞かザル。

久し振りの日光東照宮です。

左甚五郎の作と言われる彫り物を撮ってきました。

何を言わんとしているのやら・・・・・・。

日光三猿 眠り猫  歴史を物語る杉
 三猿                 眠り猫                 苔むした杉 

見事な彫り物ですね。苔むした杉の根基、歴史を感じます。

苦は楽しみの種。徳川 光圀

苦は楽しみの種・・・・・・・徳川光圀

一、 苦は楽しみの種、楽は苦の種と知るべし。

一、 主人と親とは、無理なるものと思え、下人は足らぬものと知るべし。
        無理なるもの=理屈が通らないもの。

一、 子ほど親を思え、子なき者は身にたくらべる、ちかき手本と知るべし。
         身にたくらべる=自分の身を思う気持ちとくらべてみる。

一、 掟におじ怯じよ、火におじよ、分別なき者におじよ、恩を忘るる事なかれ。
             怯(お)じよ=恐れなさい。

一、 慾と色と酒とをかたきと知るべし。」

一、 朝寝すべからず。話の長座すべからず。

一、 小なる事は分別せよ。大きなる事は驚くべからず。

一、 九分にたらず、十分はこぼるると知るべし。

一、 分別は堪忍にあるべしと知るべし。

光圀は恩を忘れるなという。まさにその通りで、日本人が他人を評価するときの最終的な基準は、能力があるかないかではなく、「恩知らず」であるか、それとも「恩に報いる心を持っているか」である。人間の値打ちがこの二つで最終的に決まる。

いかに有能であっても、「恩知らず」となれば、人が遠のいていく。逆に少々能力に劣っていても、恩を忘れなければ一目置いてくれる。

自分を生かそうと思えば恩を忘れない。このことは、光圀の言を待つまでもなく、時代を超えて、日本人社会で生き抜く根本である。 と書かれています。  ・・・・反省します・・・・

 

調子にのるな

勢い、使い尽くすべからず」と言う言葉があります。

誰でも勢いにのっている時は、調子に乗って突っ走る傾向があります。

そんな絶好調の時こそ細心の注意をし、行動を慎むようにという禅語です。

勢いにのっている時は、力まかせに普段の用心深さも忘れ、人の助言も聞かなくなっているものです。

勢いあまって本来の目的以外にも鉾先を向ける。勢いあまってついてくる人たちを見失う。

勢いにまかせていると、弱いものが見えなくなる。勢いが人を傷つけ、自分の首を絞める言動に走らせる。だから、腹八分目でやめておく知恵が生まれたと言われています。

歴史を振り返れば、勢いに陰りがさすのは敵側の要素ではなく、きまって自分が原因。

怪我や病気もそのうちです。と書いてあります。 慢心するべからずですね。

先人の知恵は素晴らしいと思いませんか。

「光陰如矢」

禅語集を読んでいる中の言葉を記載します。

「光陰如矢」:こういんやのごとし。

聞いた言葉ですね。禅語では、光と陰とは、太陽と月のこと。

矢を放ったごとく、目くるめく過ぎ去ってゆく毎日。

何万年たっても一日も後戻りすることはありません。ただ太陽は急ぐ様子もなく

、なにくわぬ顔で輝いています。また月も同じように音も立てず慌てず、美しい

満ち欠けを見せてくれています。

こんな天体(宇宙)のリズムに波乗りのように乗ってしまいましょう。

自分の小さな考えの中で自転して、空回りした時間を過ごしてしまわないように。

一日一度は空を見上げて、天体のリズムを感じてみてください。

決して「急げ急げ」とは言っていないはずです。

と解説しています。

 

宇宙のリズムに合わせて、自分のリズムとした方が良い結果が生まれるのでは

ないでしょうか。だって人間は宇宙の生き物ですからね。

滅却心頭火自涼

禅語を読んでいる時に、震災被害で困って悩んでいる方々に頑張れる言葉としてこの1節を記載します。

「心頭滅却自涼」:しんとうめっきゃくすればひもまたおのずからすずし。

心が積極的になって無心に徹すると、火の中でさえ涼しく感じるという意味です。

夢中で物事に没頭すると、暑さ寒さを忘れる、そんな経験はありませんか?

炎天下で人と待ち合わせをして相手が遅れてきたら、暑くて暑くてだんだん腹が立ってきます。

しかし、同じ炎天下で、こんがり小麦色の健康な肌に焼こうと思ったら、太陽の暑さが喜びに変わる。苦悩とは、こちらがどういう心で相対するかで随分と違うものになるのです。

苦悩から逃げると、苦悩はいつまでも苦悩のままで存在します。

だから、苦しいことからはむしろ逃げないで立ち向かう。集中力と勇気が必要ですが、いつまでも悩んでいるよりその方が楽ですよ。

さあ、クルッと後ろを振り向いて、追手と対面。

と言われています。

感謝でいっぱいです。

年末年始に、多くの皆様からお気遣いを頂きましたことに感謝申し上げます。

昨年も年越しそばの評判は上々でした。やってよかったです。

正月の毎日の来訪者、これにはビックリしています。

皆さん楽しく食べて飲んでお帰りになっていただいています。

こちらも楽しい思いをさせていただき感謝しています。

やはり、人は「自利利他」の心境で生きることが大切です。

今年も良い年が訪れそうです。皆で頑張りましょう。

一年間有難うございました。

このコーナーをご愛読いただきましてありがとうございました。

今年後半、多忙にかこつけて大変内容が伴わなくなって申し訳ありませんでした。

来年は、皆様のご希望に添えるよう頑張って書きます。

全てにおいて2012年も多忙な時期となりそうです。

私も年ですので残りの人生を一日一日大切に生きたいと思っています。

皆様のご支援を宜しくお願いいたします。

皆様にとって2012年が良き年でありますことをご祈願いたします。

おかげさまで

今年も残り少なくなってしまいました。

「おかげさまで」無事今年も終われそうです。

毎年この時期には、今年一年どれだけ人の為にできたか、と振り返ります。

一年間いろいろなことがありました。今年は特に大震災の被害に多くの方々が

見舞われました。東北の方々に比べれば自分の所の被害は微々たるものでした。

自分なりに、仕事においても、相談事においても一年間皆様のお役に立てたのでは

ないかと思っております。

また来年も、今年以上に人間として元気で健康に過ごせる以上、感謝の心を忘れずに「徳」を積み重ねて行きたいと思っています。

どうか皆さんも、短い一生を周囲の人々の為に精一杯生きてみませんか。

今年一年、皆様からのご愛顧ご支援に心より感謝申し上げます。

人生に近道なし

禅語を読んでいると「人生に近道なし」の言葉を見つけました。

平常心是道((へいじょうしんぜどう)

平常心とは、当たり前のことの積み重ねと言う意味です。道を極めるというのは、

特別なことを頭で考えてウルトラCを修得するという事ではない、と言っています。

人生に近道はないとあきらめて、あたり前のことを大切に育む日々が平常心です。

あたり前のことをずっと続けることが物事を極める極意のようですね。

心のよりどころを求めて 瀬戸内 寂聴。

震災で被害を受けた東北各地を「青空説法」を続けている瀬戸内寂聴さんの映像を毎日テレビで見ています。90歳に手が届く年齢であそこまで元気でいられるのに驚きです。

青空説法には数十人から場所によっては1500人もの聴衆が集まるようです。

皆さん震災で沈みがちな気持ちを、如何にして明るい気持ちに替えようかと説法を聞きに来るのです。何時も沈着冷静に笑顔で本音で話される寂聴さんの話に聞き入っています。

素晴らしいことではありませんか。その中で「笑顔が一番大事」と言っておられます。

困った顔は不幸が好きでどんどん不幸が寄ってくる、笑顔は必ずいつか幸せが訪れると説いていました。困ったときは笑顔を忘れないことですと言います。

本当は高名な住職の皆さんが現地を訪れて説法して頂きたいなと思います。

結局日本人が最後にすがるのは「釈迦の教え」仏法ですね。

私も少しでもお役にたてたらと思っています。

話し合う中から信頼が生まれる。

今日、工事に行ったお客様の話です。前回依頼した業者にひどい目にあったと言う

話から、詳しく聞いてみると「本当に?」と言うくらいひどい話でした。

今回も、はじめは疑問を持っていた様子です。しかし、お茶の時間などに世間話などしているうちに2日目になって信用してくれたようです。

工事終了の日に片付けが終わると「お茶をどうぞ」と声をかけてくれました。お茶を頂きながら話をしていますと、ご主人が「やはり話し合うと信頼関係ができますね」との一言を言いました。まさにその通りです。先入観を持って人に接するとなかなか信頼関係は出来ません。お互いに、いろいろ話し合うと相手を理解でき信頼関係を築くことができます。誤った先入観は互いに不信を招くだけです。

すばらしく生きること

「人生の知恵」なる本にちょっと目を通したら次のような文章に出会いました。

人が何らかの目的に向かって出発するとき、その拠り所となるのは、自分自身の内部にしか見いだせない。私は何者であるか、と自らに問うことから、人生のすべては始まる。

私とは何か?。何らかの事柄を慾している者である。慾している、とまで気持ちが固まっていなくても、少なくとも何かを期待している者である。期待、と言うほどには強くなくとも、何かを、いくぶんたりとも、好ましく思っている者である。そうだ、それこそが自分自身である。

好ましいと思う方向へ動き出す、それが生命力なのである。

人間は、自分が嫌いであることを、外から上から命じられても、十分には効果を上げることができない勝手者である。しかし、自分の内部からこみあげてくる意向に従うとき、おもいもよらぬ成果を生むことになるだろう。なにかをしたい、何かになりたい、何かが欲しい、何かが好もしい、この気持ちのうずきを自分で見届けることから、一人一人の人生が始まる。

その自分の内部の気持ちのうずきを、それを意慾と名付けよう。人間とは、生きている者である。生きていることは、意慾を持っていることである。自分の意慾を大切に育てる努力、それが人生である。自分の意慾に忠実であること、それが素晴らしく生きることである。

以心伝心

人に会うとき、自分で相手を「嫌いだ」とか「いやだな」と思う気持ちで会うと(怨憎会苦)その気持ちは必ず相手に伝わります。そして、相手も同じ気持ちになってしまいます。

わだかまりや先入観や第一印象の良し悪しなどの気持ちを捨てて、ただ普通に人に会う(男・女の区別なく)という気持ちが大切ではないかと思います。

難しいことですが一度試してください。総てが上手くゆくこと間違いありません?

みっともないですね。

たった9日で辞任した大臣。

大臣になって舞い上がってしまったのでしょうか?

軽い・自覚がない・相手の気持ちを察せない。こんな人が国会議員、そして大臣だなんてチョット情けないですね。日本の将来が危うい。

己を知り、相手を思いやる、感謝の気持ちを忘れない。この基本を忘れてはいけませんね!

震災に続き水害の被害。

今年は、想定外の地震被害と今回の台風による水害による被害。自然災害の被害が続いています。被害にあわれた方々に対してお見舞い申し上げます。

今後も自然災害(特に水による災害)が懸念される年です。大雨による水害には十分注意しましょう。特に小さな子供の被害には心痛みますね。災害が起こるたびに死者や行方不明者が出てしまいます。危険な場所には絶対近づかないことです。

やはり感謝するしかないです。

マミーが10日間入院しました。おかげで主婦業を10日間しました。

しかし主婦業は大変ですね! 朝、電気がまのスイッチを入れ、洗濯機を回し、お茶を沸かし食事の準備、ペットの餌・トイレ掃除・・・・・・

これを10日間しました。一人で朝ご飯が寂しいので、孫に来てもらって一緒に朝食をしました。

今日、退院してきましたので安心して、どっと疲れが出ました。

主婦には感謝です。つくずく思いました。

あなたは、感謝してますか!

明日から9月です。台風が接近しそうですね。台風対策をしましょう。台風

体調管理に注意

低気圧の接近で急に涼しくなってしまいました。先日の暑さは何だったんだろう?

今週は男性二組の相談来訪がありました。相談者で男性は少ない方です。

この時代、皆さんそれぞれにご苦労が多そうですね。

相談者の特徴として、男性は特に「真面目」な人が多いです。真面目な方ほど考え込んで 内向きになってしまうようです。一人で、しまい込んでしまうようです。講じると「うつ」になって しまいます。もうやだ〜(悲しい顔)  ふらふら

なんでも一人で悩んだり苦しんだりしないでご相談ください。わーい(嬉しい顔)となります。

なかなか取掛れません。

お久し振りです。

「般若心経」の掲載が終わってホットしたままになっています。

猛暑・疲れなどのせいでしょうかね、次の題材に入ることがままならない状況です。

相変わらずご相談の対応はさせていただいておりますが、ブログの方はパットしません。

もう少ししたら、もっといろいろな本を読んで何とか始められると思っています。

暑さの厳しいこの頃です、皆さんどうぞお気を付けてお過ごしください。

体調に留意しましょう

暑さもまだ続きそうです。

体調を崩し、生まれて初めての苦しい経験をしました。

何と言っても健康が一番です。つくづく今回は感じました。

皆さんも自分の健康に気を遣いこの夏を乗り切りましょう。

こんなに大きくなりました。

猫のモモは今月で生後10か月になりました。

かなりやんちゃです。でも親子で仲良くやっています。

これを見て癒されてください。

 ミミとモモ モモ生後10日 
 

 

 

心のケア

人生悩みや困りごとは尽きないものです。

連日のように多くの皆様から、メールや電話、来訪とご相談を頂いております。

その中身は多種多様に及んでいます。私自身も大変勉強になっています。

お礼の電話やメールを頂いたときは、本当にやっていて良かったと実感します。

まだまだ未熟な私ですが、これからも皆さんのお役に立てるよう老骨にムチ打って

頑張ります。

どうぞ一人で悩まないで、些細なことでもご遠慮なくご一報ください。

気分いいです。

仕事が順調に進み消化できるとストレスが溜まらなくなり気分いいですね。

今日は、見積もりした工事が施主さんとじっくり話し合い納得いただき決まりました。

施主様の立場に立って誠心誠意でお話ししますとほとんど納得いただけます。

仕事は金儲け主義ではなく、粋に誠意ですることが大切と常に感じています。

お金は後から附いてくるものと思って仕事をしています。

外は雨ですが気分が爽快です。

般若心経に学ぶ  最終回です。

今回で「般若心経に学ぶ」は終了です。では最終回の解説です。  

*波羅僧羯諦  もう迷いの世界へは戻らない

ギャーテー・ギャーテーで彼岸への道が始まったのですが、途中でとどまってし

まっては何にもならない。

したがって、「波羅僧羯諦」パーラ・サンガテー、となる必要があります。

彼の岸へと完全に到達した、ということであり、もう再び迷いの世界へ舞い戻っ

てこないことを意味しています。


*菩提娑婆訶 悟りの世界へ着いた めでたし

「婆娑訶」スパーハーというサンスクリット語の音写。

意味は、吉祥・円満・成就、といったことですので、“めでたしとか“やり遂げ

たとかと訳されている。

 

*般若心経  

これで「般若心経」という仏(釈迦)の説教も終わる。したがって、これでお経

も終わりですよ、という意味を込めて再度経題が出されてきます。

以上で「般若心経」の解説は終わりです。  合掌。

 

長い間ご訪問いただき、お付き合いを有難うございました。お経は意味深いものです。

生きてゆく人生の指針として、忘れていた自分を取戻して頂ければ必ず光が見えてくる ことでしょう。

この解説は、著者 花山 勝友師の著書より引用させて頂きました。 感謝申し上げます。

やはり子供は可愛いですね

3日間ばかり託児所の内部仕事をしてきました。

子供たちは私どもの仕事に興味津々です。「おじさん何やってるの」何にでも興味があります。

一人でトイレに行ききちんと洗剤で手を洗っています。2〜3歳ぐらいの子です。

床にお尻を付けてパンパースやズボンを一人で穿いています。その仕種が可愛いですよ。

「お利口さんですね」とつい口から出てしまいます。声をかけるとニコニコしています。

仕事をしながら癒されてきました。

般若心経に学ぶ 最終節

*第十節  安らぎの世界へ飛翔!

いよいよ般若心経も最終となりました。

故説般若波羅蜜多呪 即説呪曰  羯諦 羯諦 波羅羯諦 
こせつはんにゃはらみつたしゅ  そくせつしゅわつ  ぎゃてい ぎゃてい はらぎゃてい

波羅僧羯諦 菩提娑婆訶 般若心経
はらそうぎゃてい   ぼうじそわか   はんにゃしんぎょう  

《現代語訳》

さてそこで、智慧の完成の真言を最後に出しておくことにしよう。すなわち、その真言とは 次のようなものである。

“往き 往きて 彼岸に往き 完全な彼岸に到達したものこそ 悟りそのものである めでたし

「智慧の完成についての最も肝要な教えを説きし聖典」


*羯諦 羯諦  彼岸への第一歩を踏み出した

 いよいよ般若心経も終わりに近づいて、「これまでは説明、これからは真言ですよ」、

すなわち、その真言とは次のようなものですよという意味です。

これは、経典翻訳者の玄奘三蔵が、わざわざ中国語に翻訳しないで音写の形で残

したのです。

意味は(この迷いの世界からあの悟りの世界へと)往った。という事です。

まさに彼岸への第一歩を踏み出したのです。

 

*波羅羯諦  真言とは悟りの内容を示す秘密の言葉

真言は悟りの内容を示してはいるが、単なる言葉としてしか私達には迫ってこない。

ですが、この言葉は永久不変なのです。時間を超え、空間を超え、多くの人間が生き、 死んでいくものの、これだけは変化しないし、なくならない。

羯諦  =往き

羯諦  =往き

波羅羯諦=彼岸に往き

真理そのものは、何万言ついやしても表現できない。ただひたすら、聞き、口に

することだけなのです。

般若心経に学ぶ 第九節のつづき

第九節のおわり

*「能除一切苦」 正しい智慧こそが一切の苦を取り除いてくれる。

*「真実不虚」 一切は空、と受け止めなさい。

 今までの経文によって理解すると、真実とは、この世のあらゆる存在や現象を、

“空すなわち実体なきもの、と受け止める事であり、その反対こそが虚妄というこ

とになるでしょう。

すなわち、“空を理解して悟りの境地に到達することこそが真実であり、その真実

に導いてくれるのがこれから説こうとする真言であるから、それ以外のものはすべ

て虚妄なのです。

つまり、とらわれの心を捨てて世の中の本当の姿を見る事が出来る・・これが真実

なのです。

私たち人間は全知全能ではない。自分の持っていること、知っていること、できる

とをすべて吐き出したとしても些細なものでしかないのです。

現在、人間は肉体と心という制約があるために、さまざまな本能と欲望によって苦

しめられています。もし、これらの本能や欲望を捨て去ることが出来たら、本来

“仏の種としてある仏性が外に出てきて、“最高のこの上なき悟り(阿耨多羅三

藐三菩提)の境地に入ることが出来る。すべてのものの真実の姿を見通すことが出

来るし(智慧)、どんなことでも成し得る能力(慈悲)を兼ね備えた存在になるこ

とも可能なのだ。と信じたのです。

でも、そんなことが本当に出来るのでしょうか? できるのです。

その証拠が、釈尊を含めた過去の仏であり、智慧の実践を説いた経典なのです。

要は、釈尊の存在を信じることが必要なのです。

仏様が我々平凡な人間に遺してくれた“真実の言葉すなわち“真言(呪)を唱え

てみようという事になるのです。もう理屈ではないのです。

次回から、いよいよ最後の第十節に入ります。
 

般若心経に学ぶ 第九節 つづき

*「故知般若波羅蜜多 是大神呪 是大明呪 是無上呪 是無等等呪」

お経を読むと、「得阿耨多羅三藐三菩提」の次に「故知般若波羅蜜多・・」と続く。

この「得阿耨多羅三藐三菩提」が仏教の目的である以上、多くの経典の中では最後

の部分にこの言葉が出されてきます。

「般若心経」の場合も正にその通りで、そろそろ終わりに近づいたことを意味します。

「呪」という句は、普通一般に用いられている意味での“おまじないや“のろいと

いった意味ではないです。

真理を文字に表わしたもので真言の意味です。が、人間が期待しているものは、お

まじないによる効果と似たようなものである、といった点では類似性を有しています。

大神呪 :偉大なる真言。「すごいんだよ」

大明呪 :悟りのための真言。「全くすごいんだよ」

無上呪 :最高の真言。「最高だよ」

無等等呪 :比類なき真言。「他とは比較にならないくらいすごいんだ」

と訳していますが、要は般若波羅蜜多がいかに優れた真言であるかを、形容したと

言葉として考えてください。

般若心経に学ぶ 第9節 つづき

*「得阿耨多羅三藐三菩提」 “完全にして正しい知恵を得る。

 この言葉は、多くの経典の中に出てくる言葉で、仏教という宗教にとって、これほど大切な 言葉はない、と言ってよいほど重要な句です。

これこそが、仏教の最終目的である仏陀に到達した者が得ることが出来る、完全にして正し い知恵、すなわち「般若」の智慧なのです。

般若心経に学ぶ 第九節

 いよいよ般若心経も最終を迎えます。

*《第九説》 あるがままに生きる素晴らしさ
 
三世諸仏   依般若波羅蜜多故 得阿耨多羅 三藐三菩提    故知般若波羅蜜多
さんぜしょぶつ  えはんにゃはらみつたこ  とくあのくたら   さんみゃくさんぼだい  こちはんやはらみつた

是大神呪   是大明呪   是無上呪   是無等等呪  能除一切苦  真実不虚
ぜだいじんしゅ ぜだいみょうしゅ ぜむじょうしゅ  ぜむとうとうしゅ  のうじょいっさいく じんじつふこ

(現代語訳)

過去・現在・未来の仏たちは、智慧の完成を実践するので、この上ない最高の悟り

を得ることが出来るのである。したがって、智慧の完成という実践行こそが、偉大

なる真言であり、悟りのための真言であり、比べるべきもの無き真言であり、これ

こそがあらゆる苦しみを除き、真実にして虚妄ではないものだ、と言うことが出来

るのである。と訳しています。

*「三世諸仏」 三世諸仏の一人がお釈迦さま。

仏陀と呼ばれているのは釈迦だけではないのです。仏にも過去仏・現在仏・未来仏

と大きく三種類に分けられています。これが三世諸仏なのです。

過去仏(過去七仏)の中で第七番目を釈迦牟尼仏としている。

過去仏に対して未来仏は、弥勒菩薩(みろくぼさつ)は釈迦牟尼仏の次にこの地上

で仏になると説かれています。弥勒菩薩が次に地上に現れるのは、何とその時期が 釈迦入滅後五十六億七千万年経過してから、ということになっています。

現在、弥勒菩薩は兜率天において修行していると言われている。

その間を、無仏時代とよんでいます。その期間に生まれ死んでゆく無数の人々を救

済するために現れる菩薩が地蔵菩薩であると言われています。

このように、未来仏としての弥勒菩薩、無仏時代の救世主としての地蔵菩薩、とい

う二人の菩薩に対する信仰は現在に至るまで、多くの像が造られて拝まれ続けて

いるのです。

 

「兜率天」(とそつてん)

仏教では天界を、欲界、色界、無色界に分けている。兜率天とはそのうち欲界の一つ である。

釈尊もかつて兜率天において修行していた。

 

《如来》

釈迦如来 : シャカ。釈迦牟尼仏ともいう。

阿弥陀如来:無量寿如来、無量光如来ともいう。西方極楽浄土の主。

薬師如来 :正式には薬師瑠璃光如来という。東方瑠璃光世界の主。病苦の人々を救う。

毘盧舎那如来:盧舎那仏(びるしゃな)ともいう。大仏のこと。宇宙全体の華厳世界の主。

大日如来 :毘盧遮那如来が「大日経」において説法するとき、この名称を使う。

般若心経に学ぶ 第八節 まとめ

「あるがままに生きよ」

私たち人間にとって悟りの境地とはどんなものなのでしょうか?

仏教では“煩悩を取り除いて、悟りの状態である仏陀の境地に到達することを目的

としています。それは何も、この世を否定するものでもなければ、早く死ね、と言

っているわけではありません。


“そのままの状態で ”人間の生きている意味を見つけ出すことなのです。

われわれ人間は、すべて自分自身の“色めがねを持っている。そのままの状態

で物事を受け取ったり、判断することが出来ないのです。

“親だから、大切にしなければ

“恋人だから、優しくしてあげよう

“自分の仕事だから、真剣に取り組もう

”ご近所だから、挨拶をかわそう

この“だからというのが“色めがねなのです。


この論理からいえば親でないから恋人でないから優しくする必要はないとなる。

このような相関関係の中で判断するからこそ、迷いもすれば、苦しみを味わうこと

にもなるのです。

この世の中を、そのままの状態で見つめ、あるがままに生きる・・・・これこそが、

涅槃の境地なのです。


すべてが無なのですから、親・子供・恋人・も無い。仕事・金銭・地位・名誉な

どもない、すべては「空」なのだ、と言っている。

この静寂な境地に到達すれば、もう人間世界の巨大な歯車の中で、個性を埋没して 生きることなどなくなるのだ。何物にもとらわれず あるがままの姿で生きよ

そう教えてくれているのです。

心からわだかまりが消えたら(心無罫礙)、そこに自由の世界(涅槃)が待って

いるはず。

なんの恐ろしさも感じない(無有恐怖)、誤った考えもしない(遠離一切顛倒

夢想)。こんな境地が自分に訪れたら、きっと素晴らしいでしょう。

そこには、自分を利するといった功利的な考えはない。

色めがねを持っていると、執着心という不幸を背負っているし、苦の原因を自ら

作り出していると言えるでしょう。

人間は、本来一人なのです。有利だとか不利だとか、そんなものとは関係なしに、

一個の人間として存在しているのです。

 

与えられた、限りある「生」の中で、人間の我執を捨てなさい、そうすれば本当の

自由の境地に一歩でも近づけるのですよ、と仏は説いているのです。

世の中の真実を知り、心についた一切のカキを払落すよう努力しなさい・・これが

お経の言わんとしていることなのです。

なるほどとは思いますが難しいことです。でも少し努力してみませんか。

般若心経に学ぶ 第八節 -5-

第八節

*「究竟涅槃」  涅槃とは“死すること生きるが如き境地。

ゴータマ・シッタールタは、今から約二千五百年前に北インドの小さな国の王子に

生まれた。二十九歳の時に出家し、六年間の修行の後、三十五歳の十二月八日の早 朝、この世の真理に目覚めて、“悟りの境地に達し、そして”めざめた者すなわ

ち“仏陀になったと言われている。

“涅槃という言葉は、釈尊が死んだことを意味する言葉として用いられていますが
、本来は,“滅とか”寂静と訳されています、静かな状態を表す言葉です。

菩薩の段階に達した者も、やがては心が平常になって、永遠に迷いの世界から離れ ることになる、というのが、「究竟涅槃」の意味となります。

釈尊は三十五歳の時に涅槃に到達したのですが、八十歳で死ぬまでは、肉体は生き 続けていたので、いくら煩悩の炎を吹消したと言っても、生きる為には食べること も、寒暑や、肉体の苦痛までがすべて感じられなくなった分けではない。それは完 全な涅槃ではなかった。

そして八十歳で肉体が消滅したときに、身体の本能的機能までが働かなくなったの

で、完全な涅槃となったのです。(釈尊の死んだことを入涅槃とよぶ)

涅槃の状態を“生死一如といい。死すること生きるが如き境地という事だそうです。

われわれ人間は誠に残念ですが、生きている間にすべての欲望の炎を吹消すことのできる分けはありません。やはり私たちは、自らの煩悩によって苦しみ続けなけれ ばならないのでしょう。

悩むより行動する

大阪の誰かさん、気分はどうですか?

長い電話でしたが、いくらか気分は晴れましたか?

沢山悩むよりまず行動に移しましょう。行動すれば悩みは薄れますよ。

先を見て明るく行動してくださいね。きっと未来は開けますよ。

又何かありましたら何時でも連絡ください。一緒に悩み一緒に解決しましょう。

あなたの明るい明日を祈願いたします。

般若心経に学ぶ  第八節 -4-

*「遠離一切顛倒夢想」 一切の誤った考え方から遠く離れなさい。

人間はこの世に生をうけてから、二十年経てば成人、つまり大人になります。成人

するというのは、以後の人生を自分の責任において切り拓いてゆく、という事です。

しかし、人間は全知全能でもなければ、万能でもない。たった数十年の体験で得た ものだけに頼って、物事の正邪を決めるのは、浅はかでしょう。

 偏った心からは、偏った見方や行動しか生まれてこない。

 まず、自分の無力さを認めることです。考え方にしても、語っている言葉にしても

 すべて親・友人・そして多くの先達が残したもの、すべてが他人からの受け売りに

 すぎない。

  一切の誤った考え方から遠く離れなさい。と仏は言っているのです。“顛倒した夢

  想など、しょせん、仏の掌の外にすら出られないものなのだ。と言っています。

  偏見から離れなさい、そうすれば涅槃の境地に行けますよ、と示瞬しているのです。

  自分の持つ偏見を無くすことは難しいですが、無くす努力が大切なのではないでしょうか。

 

般若心経に学ぶ 第八節 -3-

  *「無罫礙故 無有恐怖」 平常心をもてば恐怖心はおこらない。

 恐怖心は、自分が所有しているものを失うのではないか、と考えることからも起こ

  ってくる。

  一人で夜中に道をあるいていても、奪われる何物をも持たない者にとっては、何の恐怖も感じない。(しかし、命を奪われるのは怖いですよね・私語です)

  つまり、「無罫礙故 無有恐怖」なのです。

  持てる者の悩みと言いますが、お金にしても物にしてもあればあるほどそれを失

  うことに恐れや苦しみを感じるものです。人間の欲望には際限がないのです。

   焚くほどに 風の持てくる  落ち葉かな

  この良寛さんの読んだ句の心境のように、今日生きてゆく糧さえあれば満足する境地になることこそが本当の幸せなのだ。と言っています。しかし、必要ないほどの

  落葉をかき集めて、それでも足りない足りないとせっせと貯め込んでいるのが現実であります。貯め込んだらそれを失いたくないと、鍵をかけ大切にしまい込んで、
 
  その上、もっと貯めようとあくせくしているのが人間の姿です。

  物や財産に対する執着心を持っていなければ、たとえどれほど多くのものを失おうとも、何も苦痛を感じないし、初めから何もなければ、失う心配はないことになり ます。

  菩薩の状態に達した者は、あらゆる物に対して執着心が無いのですから、心に何もわだかまりもなく、常に平常心を保っていることが出来るのです。

  つまり「恐怖あること無し」なのです。  菩薩は凄いですね。

般若心経に学ぶ 第八節 -2-

*「心無罫礙」 心静かな状態。心に妨げがない。

 心静かな状態とは、どんなことを言うのでしょう?

 恐怖について考えると。

 恐怖の対象と言ったら何でしょう。

 地震・雷・火事・洪水・嵐・飢饉(干ばつ)といった自然現象の他に、戦争・

 泥棒(強盗)・貧乏といった人災、そして、老・病・死という、誰もが避ける

  ことのできない現象の三つではないかと言われます。

  考えてみると、これらのすべての恐怖の対象は、最後の死に結びつく可能性が

  あるからこそ怖いのであって、それが死と直結しないと分かれば、ある程度恐怖

  は薄れるはずです。

  かつては、お化け・幽霊・悪鬼・たたりといったものも恐れられていましたが、

  その理由は、人間の生命を脅かすもの、といった考えからでしょう。

  なぜ、目に見えない何物かが恐ろしいのか?

  常にこちら側に恐怖心があるからであります。つまり、心にさまたげ(罫礙)が

  あるからこそ、よく見ると何という事もないものに対してでもこわいと錯覚して

  しまうのです。

  放射能の恐怖を日本人は経験し、また目の当たりに見ているので、いくら目に見えなくても、「心無罫礙」と言っても恐怖心を感じないわけにはいきませんね。

般若心経に学ぶ 第八節 -1-

*「菩提薩埵」 悟りを目指している者という意味 。 

  菩薩も特定の人を指すのではなく悟りを目指している者すべての総称です。

  (菩薩:修行中の者)→ 仏陀:悟りを開いた者)

  弥勒菩薩  未来の救いの象徴。

  観世音菩薩 衆生を救う慈悲深さの象徴。

  文殊菩薩  智慧の働きの象徴。

  普賢菩薩  仏の実践行と誓願を象徴する。

  虚空菩薩  智慧と福徳の象徴。

  地蔵菩薩  無仏時代の救いの象徴。(現代)

般若心経に学ぶ  第八節

 今回から第八節です。

*第八節  自由でおおらかな心を

菩提薩 依若波羅蜜多故 心無罫礙 無罫礙故 無有恐
ぼだいさった  えはんにゃはらみたこ      しんむけいげ    むむけいげこ   むうく

  遠離一切顛倒夢想 究竟涅槃
  おんりいっさいてんどうむそう     くきょうねはん

 

(現代語訳)
  かくて悟りを求める者たちは、智慧の完成という実践行に従っているので、心は

  何の妨げもなく、妨げが無いから恐れがなく、すべての誤った考え方から遠く離れ

  ているので、最後には永遠にして静かな境地に到達することになるのです。

文豪の言葉

文豪とか巨匠、名優などと言われる人はいろいろな言葉を残しています。

今日は、今回読んだ本の中にあった文豪、吉川英治の言葉を紹介します。

われ以外のもの、すべてがわが師素晴らしい言葉ですね。

こんな心境になりたいものです。

般若心経に学ぶ 第七節 まとめ

前回に引き続き「無」「空」の内訳を教えています。

「空」とは実体のないことです。

  花はくれない 柳はみどり

という言葉がありますが、だから花は美しく、柳は新鮮に映る。はいいのですが、

仮に、くれないの花のほうが他の色の花よりはるかに美しい、柳の木は新鮮ですが、枯葉をつけている他の木々はきたない、という評価になると。人間の価値判断が 加わってくることになります。(ここが大切なのです)

悟りの状態に到達したものは、この世のあらゆる存在や現象に対して、そのような

判断はしない。

“すべての物をあるがままに見ることが出来るようになるのです。これはすべての

物に対する執着心とか所有欲といったものがなくなるので、あそこに木があり

ここに川があるという受け止め方をするだけなのです。

あるがままに見る。

眼からうろこがとれた境地には並大抵の努力では到達できませんが、だから、一歩

でも二歩でも現実の生活の中で近づく努力をしてみよう、と考えることが大切なわけ

です。

一人の人間を見るとき、男性か女性か、老人か若者か。美しいか醜いか、といった

ものを超えることが出来たら・・・・・。一度試してはいかがでしょうか。

あるがままに見る 簡単そうで難しいことですね。

般若心経に学ぶ  第七節終わり

*「無智亦無得 以無所得故」 
           (人間はもともと得るものが無いのだから、智も得もない)

人間は誰でも生まれたときは裸です。持ち物も何もない。人間は“本来無一物の存在です。

ところが裸で生まれてきた人間も成長するに従い、必要な生活必需品、すなわち、最低の衣・食・住が与えられる。また自分の力で手に入れることによって、いつの間にか、「僕の物」「私の物」といった我執が生まれ、「他人の物」と区別するようになる。

しかし、よく考えてみると、いかにも自分の力によって得ることが出来たように見える知識や教養・学問といったものさえも、すべて他人によって与えられたものばかりであります。

社会の中で生きている以上、互いに助けられたり助けたり、という関係で毎日を過ごすことになるのだから、“自分だけの力で得ることが出来たものなんか何一つないのです。

ただ単に“縁によって与えられたものを一時的に所有させてもらっているだけなのです。

こう考えれば、自分の獲得した知恵や物であったと信じていたものも、結局一時的な借り物に過ぎなかった、という事が理解出来るのではないでしょうか。

したがって、本来無一物であるわたくしという人間に、“私の智慧(智)、“私の物(得)などと言えるものは何一つなかったのだという事です。

般若心経に学ぶ 第七節つづき

第七節つづき

*「無苦集滅道」 四つの真理すらも“空である。

迷いの世界には、四苦八苦というような、様々な苦しみが満ちています。その苦しみを断ち、悟りへと導く方法を説いたものが、“四諦とよばれる四つの真理、お経の中に出てくる「苦集滅道」です。

なぜこの世が“苦であるか?それは、渇愛とよぶべき、人間の執着心があるからです。
それを“集とよぶ。

では、その苦の原因を滅さない限り、いつまでたっても苦しみはなくならないはずです。
そこで、苦の原因である渇愛を滅ぼし尽くそうというのが“滅です。そして、どうしたら
人間の持っている執着心を無くすことができるのだろうか?

それを説いたものが“道です。
“道には全部で八つの方法があります。“八正道(はっしょうどう)とよばれています。
 
  苦の原因を滅ぼすための八種の実践方法です。

 1) 自己中心の見方や、一方的に偏った見方をしないで正しく真実を見ること。

     (正見)(しょうけん)

 2) 自分本位の考え方をせず、大きい立場から、真理に照らし合わせて考えなさい
   と言うこと(正思または正思惟)(しょうし・しょうしゆい)

 3) 正しい真理・法則に従い真実の言葉をかたる(正語)(しょうご)

 4) 正しい真理・法則に従い行為を行う(正業)(しょうごう)

 5) 正しい職業、正しい収入で暮らしを立てること。(正命)(しょうみょう)

 6) 正しい使命・目的に対して、正しく励み、努力し、怠ったり、脇道へそれたりしな
   い。 (正精進)(しょうしょうじん)

 7) 正しい教えのみ、真理、法則を見、強く思うこと。(正念)(しょうねん)

 8) 心を常に正しく置き、周囲の影響や環境の変化によって動揺することが無いよ
   うにする。(正定)(しょうじょう)

  以上の八つです。


八正道の言おうとするところは、人間の行為のすべてを、それが身体での行為であれ、口で行う行為であれ、さらには心で行う行為であれ、正しくせよ、ということです。

正しくさえすれば、自然に執着心は消滅し、この世の苦しみはなくなり、やがて悟りの境地に到達できる、というのです。結局のところ、この世を苦しみと感じる事さえも、自分自身がまだまだ執着心を持って、苦と楽とを差別している、ということに気が付く必要があるでしょう。人間の苦の原因の根本は「執着心」と言えるのではないでしょうか。

ちょいといい話

苦しさを かたる言葉に 安堵あり。

聞く耳を 持たない人に 悩みあり。

子ができた 知らせをもらう 喜びよ。

感謝です 感謝です すべてに感謝する気持ち。

釣れても釣り 釣れなくとも釣り。

 

この前、何かで見かけたのでメモしておいたものです・

死について

知人の夫婦のご主人が六年の闘病生活の末73歳で亡くなられました。

奥様にお会いしましたが、寂しさが募りますが6年間の病院通いは大変でした。しかし、反面ホッとしましたと言ってました。

回復は無理ですと言われての6年間は大変だったと察します。自分に残された人生を有意義に過ごすことにします。と言っていました。

誰もこの世に生を受けたからには遅かれ早かれやがて死を迎えます。生老病死といいますが、死は悔いを残します。

人生悔いを残さないように日々の生活を有意義に過ごしたいものですね。

私も77歳を迎え、何時何があってもおかしくない日々です。少しでも悔いのない人生を送りたいと思います。

般若心経に学ぶ  第七節

第七節 つづき

*輪廻転生の考え方とは?

輪廻とは、過去世から現在世、そして未来世へと生死を繰返すことですが、それは迷いを断ち切って悟りの世界へ到達しない限り、つまり仏陀にならない限り永遠につづくのです。
 
したがって、十二縁起の第十二に「老死」とあるのは、さらに次の迷いの世界へ転生することを意味しているのです。三世にわたる輪廻転生の原因と結果を十二の鎖の輪によってえてみると。

老化してやがて死ぬのが人間の定めですが、それは第十一の“生があったからで、すなわち生まれからかこそ人間は老い、死んでゆくのです。それではなぜ生まれたのか?
第八の自らの欲する対象に対する愛着心(愛)と、第九のそれらを自分のものにしようとする執着心(取)と、第十の生存したいという欲望(有)との三つが原因となっているからです。

では、未来世に生まれる原因は何か?母親の胎内に初めて一個の生命として宿る第三識、やがて母胎の中で心身が発育してゆくという色、そして母胎の中の六つの感覚器官が徐々に完備してくる段階の第五の六入、生まれた後に外界の様々な対象にふれてゆく第六の触、それらの対象に対して苦楽を識別するようになる第七の受、といった段階を通るからです。

それではなぜ識が生ずるのか?第二の、宿りたいという願いである行があるからであり、その原因が、第一の無知すなわち無明という迷いの根本なのです、ということになります。

したがって、われわれ人間が、迷いの世界に輪廻しなければならない根本原因こそが、真実の悟りに対する無知である、ということになります。

そこでこの無明を断ち切らない限り、迷いの世界を超えて悟りの世界へと到達することは不可能なのです。ということが仏教における十二縁起という教義が説かれているわけです。

自分が無知であることにすら気づいていないような凡人が、相対的差別を超えた悟りに到達することなど、とうてい無理なことなのかもしれません。

般若心経に学ぶ 第七節

第七節 つづき  

十二縁起(因縁)について

*「十二縁起」 十二縁起は無明に始まり老死に終わる。

一)無明     :無知であること。

二)(ぎょう)  :宿りたいという願い。

三)(しき)   :母親の胎内に初めて一個の生命として宿る。

四)名色(みょうしき)  :心身が発育していく。

五)六入(ろくにゅう)  :六つの感覚器官が徐々に完備してくる。

六)(そく)    :生まれた後に外界の様々な対象に触れる。

七)(じゅ)    :対象に対して苦楽を識別するようになる。

八)        :自分の欲する対象への愛着心。

九)(しゅ)    :自分のものにしようとする執着心。

十)(う)      :生存したいという欲望。

十一)(しょう)  :生をうける、生まれる。

十二)老死      :年老いて死んでいく。

以上が十二縁起です。

 

一〜二は、過去に於ける二つの原因です。

三〜七は、現世に於ける五つの結果です。

八〜十は、未来世に対する現在の三つの原因です。

十一〜十二は、未来世の二つの結果です。

これを“三世両重因果と言います。

 

この十二縁起は人間の一生を物語っているのではないかと私は理解しています。

般若心経に学ぶ  第七節

般若心経に学ぶ (第七)

無無明 亦無無明尽 乃至無老死 亦無老死尽 無苦集滅道  
  
(むむみょう   やくむむみょうじん     ないしむろうし       やくむろうしじん      むくしゅうめつどう          

   無知亦無得 以無所得故
  
 むちやくむとく        いむしょとくこ)

 

(現代語訳) 始まりも終わりもない、すべてない。

さらに、無知もないし無知の尽きることもない。ということから老も死もなく、老と死が

尽きることもない。ということになり、苦しみも、その原因も、それをなくすことも、そして、その方法もない。もともと得るものが無いのだから、智も得もないことになる。

*「無無明 亦無無明尽」 無明とは世の中の真理を知らぬことを意味します。

お経の中に出てくる「無明」という言葉は“明るく無いつまり無知とか愚かなことを意味している。

人間の持っている煩悩を大きく分類すると、貪欲(むさぼり)、瞋恚(怒り)、愚痴(お

ろかさ)、の三つになります。無明とは無知のことですから、愚痴につながります。

知恵がなく正しい判断を下せないことを無明と言いますが、実は、この愚かさこそが、人間が迷いに世界に次から次へと生まれ変わる原因であるとする説があります。

これが十二縁起です。

では、何に対して無明≠ネのでしょう?般若の智慧に対して、です。つまり、世の中の真理を知らず、正しい判断を下せないことを無明と言っているのです。

「無無明」すなわち無明なく、「無無明尽」すなわち無明の尽きることもない。と否定しているのです。すべては「空」なのだから、もともと何も存在していないのです

仏教からすると、現在の個の存在は、過去における業の結果であり、さらに、未来に何ものかとして生まれる原因である。という。

「自業自得」という言葉がありますが、これを分析すると、善因善果、悪業悪果ということになり、良いタネを蒔けばよい結果となってあらわれる。悪いタネを蒔けば悪い結果となってあらわれる。ということになります。

現代人がこの自業自得という言葉を用いる場合には、どうも悪い結果になったときのみを意味しているようですが、

“いつも良い心掛けでいるから、こんなに良いことがあるんだ

“よく言うことを聞いているから、ご褒美が貰えたんだというようことも自業自得なのです。

自業自得は、この世の中における原因と結果だけではないのです。過去世に於ける原因が結果として現世に表れ、現世で積み重ねている様々な原因が、未来世に於いて結果をもたらすのです。

自分の過去世における行為の結果が現在に続いているという事ですが、現世で私達が積み重ねている行為が来世につながってゆくというのです。

般若心経に学ぶ

つづき

この世はすべて空であり無である(般若心経の究極の教え)

六つの感覚器官である六根、それらの対象である六境、それらを受け止めようとする意志や認識としての六識を合計すると全部で十八となる。それらを仏教では十八界とよんでいます。

また仏教には、十界と呼ばれる世界観もあります。これは世界を、地獄・餓鬼・畜生・阿修羅・人間・天という、六つの輪廻する迷いの世界と、声聞・縁覚・菩薩・仏という、四つの世界の合計であるとする見方です。十界は、客観的な立場から見た一種の仏教的世界観と言ってよいでしょう。それに対して十八界は主観的な立場から見た世界観と言えるでしょう。

人間は、自分の眼の届く範囲の中に存在するものは、それが人であろうが物であろうが、あるいは現象であろうが、こちらに見ようとする意志がありさえすれば見る事ができる。

しかし、それ以外は、いくらこちら側に見ようとする意志があっても見えないのだから、「有る」とは言えないことになります。

過去において見たことがあるものや、見た人から知識として教えられたものについては、記憶や知識として残っているはずですから、これらは存在する、と言ってよいでしょう。

見たことも、聴いたことも、匂いを嗅いだことも、味わったことも、触ったこともないものは、知識として教えられていない限り、本当はあるにも関わらず、主観的には無いに等しいでしょう。

十界にしても、いかにも客観的な存在のように説かれていますが、この十八界と照らし合わせてみると、やはり主観的な認識と気が付くでしょう。

しかし、このように分類することこそが人間の煩悩によるものでありますから、それらの一つ一つも結局は「空」なのです。すべてを「無」という言葉によって否定することによって、全世界すら、しょせん永遠に変わらぬ実体などはないと説いているのです。(諸行無常)

人間は、永遠の中にほんの一瞬だけ「生まれさせて」もらったのだから、もっと、この世を大事に生きなさいと、教えているのです。

一つ一つの感覚器官を、単に欲望を満足させるためにだけ用いているのでは、誠に申し訳ない。このことに気づかなければ、このお経を読んだことにはならないのです。と言っています。

もっとも大切なのは、心の問題です。と説いています。こだわりのない心をもつこと。

こだわり、わだかまりを超越してこそ、“真に自由な“人生の喜びを 見出すことができるのです。と教えています。

人は誰もが心の持ち方次第で、幸せにも、不幸にもなるのです。と教えています。

般若心経に学ぶ つづき

意識して無意識に徹すること

人間には、感覚器官である六根と、それぞれの対象である六境と、それらを受け止める意志である六識がありますが、最も重要と思われるのが、「意識界」でしょう。

医学の分野で「脳死」が話題になっていますが、脳の機能が停止した時を脳死と言っているようですが、これも脳の、意識界に通じる所があります。もし「意識」が失われれば、たとえ肉体が生き続けたとしても、本当の意味で「生きている」とは言えないでしょう。

では、現に生きている自分たちは「意識」を正常に働かせているか、というと、そうではなく、意識があるから煩悩が生じて、偏った考え方に囚われることにもなっています。

要は、見る対象があり、それを見る眼があり、しかも眼識として残しながらも、まったく煩悩を生じさせないことが大切なのです。それは、「意識」の中にとらえつつも、「無意識」を貫くことが大切なのです。そうすることが悟りの世界に近づくことになるのです。

「意識して自らの意志で無意識の世界を完成することができたとき」今まで、自分が引きずり回されていた価値観は無価値になり、求めていたものが、実は欲望の対象でしかなかったことに気付くのです。何だか難しくなってきましたが引き続きご覧ください。

 

般若心経に学ぶ

つづきです。

眼がなくとも真実は見える。

眼を持っている人は、眼をもっているからこそ暗闇が不自由なのです。これに対して、初めから眼が不自由な人は、暗闇でも苦にしない「見える」のです。

私たちはせっかく眼をはじめとする六つの感覚器官をもっていながらも、それらを十分に正しく用いているでしょうか。

眼がなくても世の中の真実が見える人がいます。眼を持っていながらも、正しく物事を見ることができない人がいます。どちらが迷いの世界で苦しむことになるのでしょうか。

現実を先入観やこだわりを捨てて、そのままの姿で見ることが大切なようです。

「正見」です。

春と「うつ病」

春になると精神的な病が増加するという記事を見ました。なぜ春になると増えるのでしょう。立春とは春の気がたつ。という意味です。寒さに耐えていた地中の草木の芽が一斉に芽吹く時期です。人間の中に潜んでいた病の気も同じく出てくると言います。

ではなぜ、病院で治療を受けていても、なかなか回復しないのでしょうか。

今日に記事の中でも、どんな薬でも副作用のない薬はないと言っています。「うつ病」や他の病気で投薬を長い間受けていますと副作用の薬害を受けることは間違いありません。と書かれています。

「うつ病」の根本的な原因は現代医学では解明されていません。専門医と言われる先生も試行錯誤しながら、カウンセリングや投薬で試しているのが現状です。

「うつ病」は精神的心の病です。私のところへ相談に来て、カウンセリングするだけでなぜ簡単に「うつ病」から解放されてしまうのでしょうか?私も不思議に思っています。

それは、根本的な原因を教えてあげることが出来るからではないかと思っています。

あまり簡単に完治してしまうので、不思議に思って親御さんが訪ねてくることが、ままあります。皆さん納得してお帰りになります。摩訶不思議なことがこの世の中にはあるのです。

もし友人知人で「うつ病」で困っている方がおいででしたら、一度私のところへお連れするか、来訪することを薦めてください。

いろいろな悩みを抱えている方に、その解決方法を授けて幸せになっていただくお手伝いを、無料ですることをサイドワークとしています。

「なんでも相談所」コーナーより電話・メール等でご予約下さい。

 

般若心経に学ぶ

*無眼界 乃至無意識界  物があっても見る意思が無ければ・・・・。

 人間が眼を持っていて、眼の前に形ある眼の対象があれば見えるのか、耳が

 あれば人の話を聞くことができるのかというと、そういう訳にはいかない。

 見る意思・聴く意志がなければ見えないし、聴こえないのです。

 このように、見ようとする意志のことを眼識・眼識界と言い、耳識(界)、舌識(界)、

 身識(界)、意識(界)と言って、全体を「六識」と呼びます。

 経典の中では、中間の耳識・鼻識・舌識・身識の四つが「乃至」という言葉で省略

 されています。また最初の眼識界も、識の字が省略されて、「眼界」となっています。

 六根・六境と同じように見ようとする意志、聴こうとする意志、匂いを嗅ぐ意志、・・・

 というのを別のものと受け止めることが問題なのですから「無」という意味で否定し

 て、「空」であることを強調しています。

 「無」の心で見たり、聞いたり、話したりすることが大切なのかもしれません。

 

般若心経に学ぶ

 前回より続き 

*無色声香味触法   ない物を見、ない音を聴く・・・・・・。

では、眼がありさえすれば見えるのでしょうか? ないものは見えない。すなわち、眼で見る対象があるから見えるのであって、そういった対象は、すべて形あるものですから,それを「色」と言います。「色」とは「形」ととらえてください。

同じように他の五つの感覚器官についても、耳の対象としては音や声、鼻の対象としては匂い(香)、舌の対象としては味(味)、皮膚の対象としては接触感(触)、そして心の対象としては法、ということになります。これら六つの対象を「六境」と言います。

心の働きは極めて複雑です。現在の時点で、思い出したり、未来のことを想像したり、ここに存在しないはずの物や音や香りや味や接触感を感じることさえ出来ないわけではない。

このように考えると、必ずしも物が無くても見ることができるし、ない音を聴くこともできるわけですから、見る対象が無ければ見えない、とするのは、迷いの世界に於ける相対 的な見方であるといった考え方もできる。そこで「無色声香味触法」となります。

 難しいですね、ムムム・・・。

般若心経に学ぶ

今年も般若心経について書かせていただきます。この教えは本当の意味での人

生指針です。一流のスポーツ選手やゴルファーの方々は、この般若心経の写経

をしている人が多いのです。それは健康成人の集中力は2時間と言われていま

す。写経は集中して約2時間かかりますので、集中力を養うためにしていると言

います。皆さんも是非、今年は写経をしてみては如何でしょうか。

それでは本題に入ります。

 

*是故空中 無色無受想行識 無眼耳鼻舌身意 無色声香味触法
   
ぜこくちゅう     むしきむじゅそうぎょうしき      むげんにびぜっしんい      むしきしょうこうみそくほう 

  無限界  乃至無意識界
   
むげんかい     ないしむいしきかい


 (現代語訳)
 したがって、実体が無いということの中には、形あるものはなく、感覚・記憶・意志・知識といった精神作用もないし、眼・耳・鼻・舌・身体・心・といった感覚器官もない。さらに、形・音・香・味・接触感・心の対象といった、それぞれの感覚器官の対象もないし、それらを受け止める、眼識から意識までの六つの心 の働きもないのです。

 *無色無受想行識

 お経では、この世のありとあらゆるものが「空」なのです。と説いています。そして

 「空」 の中には何もないのです、と展開してゆきます。

 色も受想行識もないと言っているのです。

*無眼耳鼻舌身意 見る、聞く、匂う・・・すべておなじ。

 人間には六つの感覚器官が備わっています。それを「六根」よんでいます。六つと

 は、 眼・耳・鼻・舌・皮膚そして心のことです。これらをお経の中では「眼耳鼻舌身

 意」と言っ ています。

 「眼耳鼻舌身」は誰でもわかります。問題は「意」つまり心の働きです。これには、

 感受性 としての「受」、記憶の働きの「想」、意志を意味する「行」、認識・識別の

 意味を持った「識」 という四つの精神作用や現代風の深層心理のような働きも含

 まれています。

 こういった人間の「心」、精神的な働きすべてをまとめて「意」という言葉で表して

 います。

 人間は常に煩悩によって乱されているので、六つの感覚器官を欲望のために使

 いがちです。だからこれら全てを清らかにしようという気持ちだけは持っていたい、

 という願いが、登 山のときの「六根清浄」という言葉で現代にも残っています。

 六根は別々の存在ではない、同じなのだと言っているのが「無眼耳鼻舌身意」な

 のです。

 般若心経ではすべてが「無」であるという事の教えですから「無」という字が多く出

 てきます。 

あなたは持っていますか?

皆さんは良き人生を送るための指導書をお持ちですか?

いろいろな著書が出ていますが、基本的には皆同じような感じがします。

私のお勧めは「般若心経」です。たった262文字の中に生きるためのノウハウがびっしり凝縮されています。宗教なんて、と思われる方がおりますが、古来から仏教の教えにより日本人は教育指導されて現在に至っているのです。荒廃した現在の世の中を変えるにも必要な教えだと思っています。

皆さんも「般若心経」を一度ひも解いてみませんか。

感謝し努力します。

このページにアクセスいただきました多くの皆様に感謝いたします。

年を追うごとにこのページのアクセス数が上昇しています。本当に有難うございます。

今年は、もっともっと勉強して皆様のお役に立てるよう自己研鑽してゆくつもりです。

これからも宜しくお願いいたします。

新年おめでとう御座います。

2011年を迎え新春のご挨拶を申し上げます。

新年を迎え皆様にはご健勝のことと存じ上げます。心より皆様にとって良い年となることを

祈願いたします。

今年も「心のよりどころ」をよろしくお願いいたします。少しでも皆様のお役に立てるよう充実

した記事を記載したいと心しております。

 

般若心経に学ぶ

*「不増」「不減}(ふぞう・ふげん)
 
 お経の中で、「不増」と言っているのは、物事は一部の現象や姿だけから判断すべ

 きではない、と言っています。

 ちょうど“金は天下のまわりものという言葉に象徴されているように、発行された

 紙幣や貨幣が一定しているならば、個人として持っている金銭の額には変化が
 あったとしても、全体から見れば不増不減であるようなものです。

《総訳》

 “美しいものを尊び、醜いものを侮辱する

 “強いものに憧れ、弱いものは軽くみる

 “富を尊び、貧を下に見る

 “大なるものを崇め、小なるものは捨てる 

  人間は、なんと“相対的なるものに左右されて生きているのでしょうか?

  なぜ自分なりの基準、自分だけの“色めがねだけでもって、よのなかを見、

  かつ暮らしているのでしょうか? 

  そういうものが「苦」の原因になるとも知らずに・・・・・。

   この世の中に“絶対など存在しないのです。“絶対と信じている人間はいても

 “絶対はない、すべて“まぼろしなのです。このことを説いているのがこの章の言

  葉です。

  ・世の中のあらゆるものは“空なのだから、・・・・・是諸法空相

  ・それは本来、生じたものでも滅したものでもない・・・不生不滅

  ・汚れたものでも浄らかなものでもない・・・・・・・・不垢不浄

  ・増えたものでも減ったものでもない・・・・・・・・・不増不減

 この真実に、人間はなかなか目を向けようとしない。とらわれの心を持っているか らです。とらわれの心は“そこに何ものか永遠なる存在があると思い込んでいるから です。

   執着という名の不幸を取り除くことが大切です。

こういう落とし穴に陥らぬよう、もっと真実に目を向け。自分だけの思い込みなど捨 てなさいと説いているのです。

 「般若心経で学ぶ」はこれが今年最後です。来年またよろしくお願いいたします。

 皆さんどうぞ良い年をお迎えください。

今年も終わりです。

いよいよ今年も残り僅かとなってしまいました。皆さんにとって今年2010年はいかが

でしたでしょうか?世の中がすっかり変わってしまったような気がします。

世界中で、日本でもさまざまな問題や災害が起こり波乱万丈の2010年のような気が

します。今年よくなかった人、良かった人、人それぞれでしょうが、今年の生き方が翌年

に現れるので、来年もこのことを忘れずに邁進していただきたいと思います。

般若心経に学ぶ

*「不垢」(ふく)  きれいなもの

 きれいとか汚い、といった印象は、相対的なものであります。時代や国、風俗、習
 慣そのも左右されます。何が絶対的に“垢=iきたない)であり不垢=iきれい)
 であるか、というような基準はないといってよいでしょう。

  私たちが迷いの眼をもって垢∞不垢≠ニ差別しているあらゆるものが、あくま
 でも相対的な判断でしかないと分かります。お経の「不垢」は、世の中のあらゆる
 ものは「空」なのだから、汚れたものなどないと言っているのです。


*「不浄」 (ふじょう) きたないもの

     「永遠の美は幻に過ぎない」

 私たちが“美しい“浄らかであると考えているものもまた、相対的な判断にしか過

  ぎないと言っています。これが「不浄」です。

 仏教の修行の方法の中に“不浄観というものがあります。私たちが生きることのみ
 に執着したり、欲望を持つことから離れるために、いかに人間が“汚いもの“けが
 れているものであるかを認識する、というものです。
 
  どんなに若くて美しい女性でも、やがて老婆になれば醜くも汚らしくもなります。
 “美しいということは人生の一時期での現象です。“永遠に変わらない、というもの
  ではない。現在でも、その腸の中には糞尿が一杯詰まっているはずです。このよう
 な真実を見極めることも、人生にとっては大切です。

  きれいなものの裏側には必ず汚いものがある。永遠に浄らかなるものなど、ただ
 の一つもないのです。そういうことに一瞬でも早く気付くことが大切です。
 
 浄らかなものでもない、すべて「空」なのだから、と説いているのです。

 早くく気付いて迷いから抜け出して安らかな人生を送りたいものですね。

般若心経に学ぶ

般若心経に学ぶ

*不滅(ふめつ)

死んでも無になるわけではない。霊魂の不滅を説いている宗教の場合は、たとえ肉体が消滅しても、霊魂だけは永遠に残る.とされています。

しかし、無我を主張している仏教では、初めから実体としての霊魂の存在は無いとしているので、もともと無いものが、死んだからと言ってなくなるとは考えない。そういう意味で「不滅」滅することが無いと説いているのです。

「不滅」とは本来、この迷いの世界におけるあらゆる存在や現象に、永遠に変わらず継続する実体が無い以上“生ずる≠ニいうことも実体が無い、ということを言おうとしているだけなのです。相対的な消滅を超えたところにこそ、仏教の悟りが存在すると言っているのです。         
お釈迦様の教えは意味深いですね。  つづく。
 

般若心経に学ぶ

続き

*不生(ふしょう)

 お経の中での「不生」という意味は、この迷いの中のあらゆる存在・現象のいずれもが実体のないものである以上、“生まれる≠ニいうことも実体がなく、単に一時的な仮の姿の表れにしか過ぎない。ということを言っているといいます。

現在の一人ひとりの人間は、過去における自分自身の「業(ごう)」、すなわち行為の結果としてこの世に生まれたといいます。これが仏教における輪廻転生の思想であるといいます。ということは、少なくとも「私」という者が、無から生まれたわけではないことになりますね。

したがって、「私」という現在の存在は、過去から未来にわたって変化しながら存在し続ける「空」なるものの、一時的な仮の姿ということになります。

それならば、現在の人間として生まれた、という現象も、変化の姿の一つに過ぎないのだから、もともと「生まれた」などという実体はないことになります。

ひとりの人が生まれる、という現象には、今までなかった生命の誕生、といった印 象を与えます。科学の目から見ても、精子と卵子にそれぞれ存在する父と母の遺伝 子を受け継いで一個の生命となるのですから、何もないところから突然生じる分けではないのです。業といった考え方にしても、過去における先祖代々の人間の遺伝子であると受け止めれば、別に荒唐無稽な考えとは言えないでしょう。

「業」に中には、外面に表れた身体や口による行為だけではなく、心の中で考えたり

思ったりしたことも積み重ねられているから、その中身は極めて複雑です。

もしこの業が輪廻の主体であるとするなら、過去世より現在世へ、さらに未来世へと

永遠に転生を繰り返すことになって、いかにも業そのものが実体であるかのように思われますが、しかし業そのものは一瞬一瞬その瞬間における身・口・意による行為を付け加えてゆくので、同じ状態で継続することはない。したがって、変化してゆく業には、業としての実体もないといえます。

子供を産む≠ニいった言葉の使い方がありますが、いかにも自分達の意志によって生んでいるかのように思っていますが、よくよく考えてみると、縁すなわち様々な条件が備わっていなければ絶対に子供は生まれてこないし、ましてや、願い通りの子供が生まれるとは限りません。それは、こどもは与えられた≠烽フであっても、決してつくった≠烽フではない、つまり実体がないのですから。

難しい話になってしまいましたが輪廻転生によって現在の自分が存在するという。
                                                                           つづく

ミミの子育て

ミミ二世も生後、早2ヶ月を迎えました。名前もやっと付きました。「モモちゃん」です。

毎日元気に飛び回り、母親とじゃれ合っています。オシッコもちゃんと自分専用のトイレでするようになりました。成長は一日ともいえません。私の食事時は腕に乗っていたり、肩に乗っていたりして大変です。現在夜は又私の布団に寝るようになってしまいました。

本当に毎日癒されています。

2世 2ヶ月目  
二ヶ月です。                  

般若心経に学ぶ

 般若心経を読んでの続きです。

*舎利子 是諸法空想 不生不滅 不垢不浄 不増不減
 (しゃりし ぜしょほうくうそう ふしょうふめつ ふくふじょう ふぞうふげん)

(舎利子、この諸々の法は空想なり、不生にして不減、不垢にして不浄、不増にして不滅なり) 

(現訳)
舎利子よ、この世のあらゆる存在や現象には実体がないのだ(空想)。だから、

生じたものでも減ったものでもない、汚れたものでも綺麗なものでもない、増えたものでも減ったものでもないのです。

*是諸法空相(ぜ しょほうくうそう)

姿形ある肉体と、その中の心とが常に変化しているのが、人間をはじめとするすべての存在です。人間は、生まれた瞬間から、体と心を持った一個の存在として現われ、死ぬまで存在し続けるのです。しかも、一瞬一秒でも、前の状態と同じ状態で生き続けることは出来ないのです(無常)。変化しなければ成長も進歩もないし、生まれることも老化も病気もないでしょう。変化することによって生命が誕生し、やがて老と死を迎える。その死を迎えるまでは、変化しながらも身心を保ってゆく、ということになります。

これこそが、この世のあらゆる存在や現象(諸法)には実体がない。という姿(空相)なのです。

何だか難しくなってきてしまいましたが、何となく分かるような気がしませんか? つづく。

今日は「いい夫婦の日」です。

「いい夫婦」って見ていると微笑ましくて、羨ましい感じがしますね。自分達夫婦は果たして「いい夫婦」かな?と考えますと、どうやらそうでもないですね。「いい夫婦」の基準は何だろうと考えてしまいました。自分なりに考えますと、互いに喧嘩をしたりしますが後に残さないことが一番良いのではないかと思います。喧嘩や口論はその場限りにしておきましょう。

明日は勤労感謝の日です。たまの休日夫婦でお出かけになっては如何でしょう。

般若心経から学ぶ

「受想行識 亦復如是」:心の四つの働き(五蘊)もまたかくのごとし。

心もいつか変わってゆく。「絶対に変わらぬ愛」を誓って、信じあった二人の愛も、やがて色あせるときが訪れる。他の異性に横恋慕、倦怠期を迎える、離婚を決意する、配偶者の死を願う・・・・。愛がその始まりの頃と同じ強さでけいぞくすることなど、きわめて稀なことです。

愛に実体はないのです。どんなに愛し合っていた二人であっても、片方が死んでしまえば、やがて悲しみや苦しみは徐々に薄れていってしまう。そのうち、どうしてあの時にあんなに悲しんだのか、と自分が不思議に思えてくる。これが現実の人生なのです。

このように人間の心にもまた、実体が無いのです。常に心というものも変化し続けているのです。

このように人間の心もまた、実体がないのです。「受想行識 亦復如是」つまり心の四つの働きも、色と同じように空なのですと、言っているのです。

「色不異空 空不異色」:「色」は「空」と同じであり、「空」は「色」と同じなのです。

「空」の思想を強調する四句。

以上のように、この世には何一つとして永遠なるものはない。すべては本質的存在ではな い。・・・・――――これが「空」なのです。永遠という時間の中に人間を置いてみると人間は何年生きられるだろうか?せいぜい百年でしょう。永遠を100としたら「百年」は、ほぼゼロに等しい。千年の古木も永遠に比べたらゼロに等しい。

すべては永遠の存在ではなく、また、そうだからこそ、今、一時的な仮の姿を与えられて「有る」ように見えるのです。ではどうしたらよいのか?

 一時的に「現在の人間」として生を与えられた、「わたくし」という人間が、この様に恵まれた機会を十分に生かすことなく、単に瞬間的な享楽のみを追いかけて生きてはならない。

実体のない私達の一生を、いかに有意義に用いて、未来の変化に対する備えをしておくべきか、を教えようとしているのです。

と言うことは、私もいずれは死んで消え去る身、現在は仮の姿なのですね。

毎日癒されています

愛猫二世が始めての親子でのツーショットです。生後18日目です。

嫌なことがあっても、この二世を見ると本当に心和み癒されます。  

毎晩、私と一緒に寝ています。この顔を見ると寝不足も忘れます。 

般若心経より学ぶ  色即是空 空即是色

 「空即是色 色即是空」

皆さん一度はこの言葉を聞いたり見たりしたことがあると思います。それでは紹介します。

*舎利子 色不異空 空不異色 色即是空  空即是色  受想行識  亦復如是
  しゃりし    しきふいくう    くうふいしき    しきそくぜくう    くうそくぜしき    じゅそうぎょうしき   やくぶにょぜ

「舎利子」 : 釈迦の十大弟子の一人。智慧と徳に優れた。

「色即是空」:形として存在しているすべてのもの(色)には永遠に継続するような実体などはない(空)、ということを意味している。

「空即是色」:「空即是色」を逆に考えてみると、永遠に継続すべき実体がない(空)からこそ、瞬間的には一定の形あるもの(色)として存在する、と言うことに なります。
 
仏教の基本的な教えの中の一つに、無常観と呼ばれるものがあります。この世の中にあるすべての存在と現象は、一瞬たりとも同じ状態にとどまることはなく、常に変化し続けるということです。「諸行無常」

「祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり・・・・[平家物語]

「ゆく河のながれはたえずして、しかももとの水にあらず、よどみにうかぶうたかたは

かつきえかつむすびて、ひさしくとどまりたるためしなし。よのなかなるひととすみかと、またかくのごとし・・・」 「方丈記」

無常観を感じさせる有名な句です。「無常」という言葉から、すぐに死とか消滅とかいったことを連想されますが、無常とは、否定的・消極的なものだけを意味するものではなく、成長・発展・進歩といった肯定的・積極的な面も含んだ思想なのです。

現実の世の中を、あるがままに冷静に見つめた上で、ではどのような目的を持って生きていったらよいのか、を深く考えるための出発点なのです。

このように、あらゆる存在や現象には実体がない、ということを見極め時に、私達は、そんな実体がないものに執着することが、いかに空しいものであるかに気がつく。そのことを教えようとするのが、このお経の目的といってよいでしょう。

ミミの子育て

今日で子供は14日目です。一晩に数回オッパイを飲みます。そのたびに起こされます。

オシッコや排便は、ミミが舌でお腹を刺激してさせてる様子です。一切汚しません。

ここ数日、授乳が終わると私の体に寄り添ってきます。うっかり動けません。ふらふら

今朝、5時ごろ目を覚ますと、子供が私の枕に顔を乗せて私のあごの所に寄り添って寝ていました。そしてミミも並んで顔を出して寝ています。一人と二匹で川の字に並んでいました。

マミーが部屋に来て覗いて笑っていました。わーい(嬉しい顔)

何だか毎日ミミ親子に振り回されているようです。子猫は日ごとに可愛くなっていくようです。

本当に動物は癒しになりますね。猫

癒し・寝不足

飼い猫のミミが子供を生みました。それも一匹です、今日で13日目です。八日目にはじめて見ました。それも夜になって寝る時間に、私の寝床へ子供を咥えて入ってきたのです。

困りました。まだ手のひらに乗ってしまうほどの大きさです。可愛いです。

寝返りを打って潰してしまっては大変なので一晩中眠れませんでした。ミミはそのまま子供と一緒に昼も夜も居座っています。今日で6日目です。子猫は3日前ほどから目が開きました。

本当に可愛いですよ。孫は毎日学校から帰るとまっすぐ見に来ます。早く抱いてみたいと言って楽しみにしています。本当に癒しになります。

動物の子供に対する愛情は人間以上のように思えます。早く親子で出てこないかと楽しみにしています。ミミはトラ模様で子供も同じトラです。寝姿が可愛いです。

「無教会」 内村鑑三

軽井沢の「石の教会」を見学する機会がありました。内村鑑三の記念館として建てられているようです。

内村鑑三という名前は、はるか数十年前に中学校の教科書で見たような気がします。

69歳で心臓病により亡くなられたそうです。明治・大正期のキリスト教者で「無教会」は内村鑑三に依って初めて語られた言葉です。と書かれています。その一部を紹介します。

      教会のすべてを「無」にするという意味ではありません。

                  教会とは

          制度が{無」くても、たとえ信仰が「無」くても

                 祈りたい人が

         自由に集うことの出来る場所なのではないか。

                 あたかも家庭が

           不完全ながら暖かな休息所であるように

                   教会もまた

                愛ある場所なのだから

                 と師は説きました。

                 と、書かれています。               
                    
 

 場所や形にとらわれずに、祈りたいときには場所にはこだわらずに、その場所が 教会と 思い、そこで祈ればいいのだ、自然に中に生かされているのだから。と言っているようです。

          

 

般若心経から学ぶ -10- つづき 

 前回からの続き

一休禅師(一休さん)の挿話に、正月に「めでたいめでたい」と浮かれている人々に向かって「門松は冥途の旅の一里塚 めでたくもありめでたくもなし」と警告したのです。

新年を迎えることは、新しい年に向かっての希望に満ちた第一日であると同時に、死出の旅路への一歩でもあるのです。

愛と怨憎から遠く離れて、欲望から別離し、生と死を差別しない境地に到達するためには、この世の諸現象全てが「空」なるものであることに気が付く必要がある。そのことを「照見」したのが観音菩薩であったということです。

悟れる世界に到達した者から見れば、しょせん人間世界(此岸)のあらゆる苦しみは、人間がこの世に執着する迷いから来ているものとなります。

その迷いの世界(此岸)から悟りの世界(彼岸)へとすくいだそう、「度」(渡そう)とし、それができるものこそが、菩薩なのです。

*一切の苦厄は身・口・意からおこる。

私達人間を構成している身心の中で、心というのは厄介なものです。だからこそ仏教の教義においては、人間を構成する要素の中で、色(しき)を除いた四つ、受想行識は心の働きと言うことになっています。

仏教では、人間の行為を三種類に分けて、心口意(しんくい)の三業、と言っています。

身体でなす行為と口で言う行為は、外部に現れるから他人でも良く分かります。意業と呼ばれる心の働きだけは、本人以外の者にはなかなか判らないものです。

本音と建前がまったく違うなどと言われますが。確かに普段、私達が口に出して言っていることと、心の中で思っていることの間には開きがあることがあります。だからこそ古人は、「天知る 地知る おのが知る」などと言って、いつでも自分以外の何者かが、自分の心の中まで見通しているのだから、決して分からないなどと思ってはいけない、と警告しようとしたのでしょう。

いずれにしても、この「心」という存在は、人間にとって、又生き方にとって、極めて重要な問題と言えるでしょう。

金・物などに「執着心」が過大になると様々な問題を起こす原因となります。仏法でもこの世に執着する迷いから苦しみが始まると言っています。

人間は、上辺の言動ではなく心が最も大切なのです、と言っています。

般若心経から学ぶ  つづき

前回の四苦八苦の続きです。 

残りの「四苦」は:愛別離苦・怨憎会苦・苦不得苦・五蘊盛苦があります。 

「愛別離苦」とは:愛するものと別れたり離れたりする苦しみ。(あいべつりく)

「怨憎会苦」とは:怨み・憎む人と出会う苦しみ。      (おんぞうえく)

「苦不得苦」とは:求めるものが得られない苦しみ。     (くふとっく)
         
人間の欲望には際限がないから、永遠にこの苦しみから解放されることはない。

「五蘊盛苦」とは:色・受・想・行・識の五蘊による苦しみ。 (ごうんじょうく)

以上の七つの苦をまとめて、身心の五つの要素によって構成されている人間の存在そのものが苦しみなのであるとする五蘊盛苦が最後の出されてくるのです。

人間として母親の胎内から生まれてきた以上、「生」そのものを否定することは不可能です。

そうかといって自らの手で生命を断ち切ることが苦からの解放になる、というものではない。要は、現実に目をそむけずに、四苦八苦をあるがままに認めることなのです。
これらの現実の姿を直視したうえで、さらに、これらの苦しみを超越した解放の世界である悟りをめざせ、と言っているのです。

人生は苦しみに満ちたものであり、四苦八苦の苦しみ、心と身体があるための苦しみ、「人生は四苦八苦なのだ」と見据えることから、この世をおおらかに生きてゆく智慧が見つかる、と言っているのです。

*愛と怨憎から離れられれば

自分の愛する対象でなければ、誰が何人が別れてゆこうと、それは自分にとって苦しみとはならない。自分にとっての愛の対象でない限り平然としていられる。

愛別離苦の苦しみの原因は、自分の側の愛にあるからです。同じことは、怨憎会苦や苦不得苦にも同じです。

自分が怨んだり憎んだりするから、それらの人達と会ったり話したり、一緒に暮らしたりするのが苦しいのです。恨みの憎しみも感じていない相手なら、何も苦しむことはないのです。欲しい欲しいと求めるから、手に入らないことが苦しみのなるのであって、欲しいと思わなければ、得られない苦しみはおきないのです。

生と死についても、生まれることは目出度いことであり、楽しいことですが、死ぬこと

は苦しいことであり悲しいことである。と思い込んでいるからこそ、老も病も苦しみと

なり、はては、それらの原因である生さえも苦しい、となる。

「老」は確かに死へ近づく過程でありますが、同時に、人間が成長する過程でもあるのです。   つづく

般若心経から学ぶ 

 「般若心経を読んで」 -10-のつづき

「一切苦厄」 (いっさいくやく)とは

仏教の開祖、釈迦によると、この世(此岸)に住む私達人間の一生には、苦しみが満ちており、それらを分類すると四苦八苦になる。これらを総称したのが文中の「一切苦厄」であります。

この苦は人間の力ではどうすることも出来ない根源的な「苦」なのです。

*「四苦八苦」とは:八苦の前半は四苦のことですから、合計八苦あるだけで、十二苦あるわけではない。
 
「四苦」とは:生・老・病・死(しょう・ろう・びょう・し)誰もが老化し病気になり死んでゆくのは苦しい。

「生」苦とは:生まれたことの苦しみ。

「老」苦とは:年老いる苦しみ。

「病」苦とは:病気になる苦しみ。

「死」苦とは:死ぬことの苦しみ。

死んで行くのは苦しい。ではなぜ老・病・死があるのか?それは生まれたからである。つまり、“生”こそが、その後の苦しみの出発点ということになります。   (つづく)

般若心経を読んで ー10−

「照見五蘊皆空 度一切苦厄」
          
しょうけん ごうん かいくう ど いっさいくうやく)

読み下し文:五蘊皆空を照見して一切の苦厄を度す。

「五蘊」:二千五百年前の仏教の世界においては、人間を構成するものは「身体」と「心」の二つであり、その心の働きをさらに四つに分類して、計五種類としていた。

「色」が“形あるもの”ということで肉体の総称であり、「受想行識」(じゅそうぎょう

しき)というのが心の四つの働きです。

五蘊とは

肉体:色(しき) 形あるものすべて

精神(心):受(じゅ) 感覚

       想(そう) 記憶

       行(ぎょう) 意思

       識(しき) 知識

これらをまとめて{五蘊}と読んでいます。仏教では、このような五つの構成要素からなる人間の存在そのものが苦であると考えるのです。

いかにも独立した一個の存在のように思える個々の人間も、結局はこの五蘊の構成要素が、さまざまな条件の下に一時的に合成された姿であるから「空」であるという。これがこの経典の主張なのです。

「空」とは:“有るような無いような”ものこそが「空」。現代風には“実体無きこと”

といえるのではないでしょうか。

「照見」とは:私達は二つの眼を持っている。その眼は本当に物事をしっかり見ているかというと、はなはだ怪しい。物理的には確かに眼によってさまざまな物や現象を見ていま

すが、それは単に表面的に見ているに過ぎず、多くの場合、それらの本当の姿に気が付いていないのではないでしょうか。
美形で背が高く頭も良い、と見定めて結婚したはずの女性が、妻としてはまったく不向きの人間だった、と後に気が付く。容姿や学歴、家柄といったものに眼を奪われて、内面的なものを見抜くことが出来なかったからでしょう。

同じことは夫の場合にも言えます。

だからこそ、あれほど好いて好かれて一緒になったはずの夫婦が、現代のように、何秒かに一組の割合で離婚することになるのです。人間というものは、きわめて不完全なものです。このように外見に惑わされるのも自然なことなのかもしれません。

しかし、すべての人々を救済しようとする観音菩薩は、そんな表面的な現象だけを見てはいない。「この世の真実」を見たのです。

お経の中の「照見」というのは、“この世の真実”つまり五蘊はすべてか空なのだ、と見定めたという意味なのです。照見とは単に現象的、表面的な面を見るのではなく、物事の本質を見極めることなのです。         つづく

般若心経を読んで -9-

*般若心経を読んで  

「行深般若波羅蜜多」(ぎょうしんはんにゃはらみた)パーラミターの音写。

迷いの世界(此岸)から悟りの世界(彼岸)へ到達するための実践行。波羅蜜とも呼ばれ全部で六種類あります。これを「六波羅蜜(ろくはらみつ)」と呼んでいます。

六波羅蜜とは

布施波羅蜜:他人に対して広く施しをする実践。 (ふせはらみつ)

持戒波羅蜜:日常生活の諸規則を守る実践。   (じかいはらみつ)

忍辱波羅蜜:じっと我慢する実践。       (にんにくはらみつ)

精進波羅蜜:あらゆる努力を惜しまない実践。  (しょうじんはらみつ)

禅定波羅蜜:現在していることに心を集中させる実践。(ぜんじょうはらみつ)

般若波羅蜜:智慧を理解し実践し、上記五つの実践を支える。(はんにゃはらみつ)

彼岸こそ「菩提(ぼだい)」すなわち悟りに到達するための実践行をなす期間として設定された、仏教徒のための修業期間であったとされています。

彼岸の入り・彼岸の中日・彼岸明けということが言われていますが、もともとは、中日をはさんだ六日間の間に六波羅蜜多の一つを実践するすると言うのが、彼岸の起源だったといわれています。

六波羅蜜を読んでみますと、現代における我々人間が忘れていることではないかと感じます。

仏教の世界のことではないように、ブッタの教えはより良い人生を送ることへの教えですね。何か一つでも六波羅蜜を実践してみませんか?

情は何所へ

連日の非情な報道を見ると人間・親子の情はどうなってしまったのだろうと思いませんか。

同居の親の死を弔うどころか、そのまま白骨になるまで放置したり、袋に入れて押入れに放置したり、親が子供を子供が親を殺したりと人間としての情や親子の関係はどうなってしまったのでしょうか?あなたはどう思いますか?ふらふら

周囲の人々や関係者の方の対応は?あまりにも自分主義のように思われます。現代の風潮でもある、自分のことだけで精一杯、他人の事なんかかまっていられないというような、薄情な風潮。これらは何時からこうなったのでしょうか。ちっ(怒った顔)

気持ちも心もまったく余裕がなくなって、自分主義の世の中になってしまったせいでしょうね。

犬や猫だって自分の子供は命がけで守ります。人間はこれ以下になってしまったのでしょうか。

悲しいですね。もうやだ〜(悲しい顔)

自分が現在この世に存在していることは、両親があり御先祖があったからです。感謝の気持を忘れないでください。

 

 

観音の慈悲について

*般若心経を読んで  -8-

観音の慈悲について

観音さまは、「正しい智慧に目覚めた者」である仏陀の二大特徴である智慧と慈悲のうち「慈悲」を象徴化したものです。

「慈悲」とは、相手に喜びや楽しみを与え、同時に相手から悲しみや苦しみを取り除くことを意味している。

しかもその慈悲の対象は、決して個人の人間ではなく、生きるものすべてに対してであるということです。

観音の慈悲は、生き物を決して差別しない。

我々人間はどうでしょうか、「子供や孫がかわいい」「恋人を抱きしめたい」とか、「オレの・・・」 すべて自分を出発点としている発想です。だから、相手に裏切られたりすると、途端に愛が憎しみへと変わってしまうのです。

衆生がどんな姿、形をしていようが、富める者のだろうが貧しい者だろうが、そんなことには頓着しない。この世で悲しんだり、苦しんだりしている衆生を救済するのが目的なのです。

実はこの「衆生を救済する」という目的を持って説かれているのが「般若心経」なのです。

[観音さま 「般若心経」を読んで -7-

今日も酷暑の中、老体に鞭打って頑張っています。

皆さんも一度は観音様をお参りし、お願いしたことがあるでしょう。

観音菩薩は、さまざまな姿があります。今日は観音さまについて書きます。

*観音さま

「観自在菩薩」観音さまのことです。他に、観世音とも言われます。

観音は苦しみ、悩み、迷う者の祈りを一身に受け、すべての衆生を 救ってくれるのです。

観音さまは顔立ちが優しいことにお気づきでしょう。男でもなく女 でもなく「性」を超越しているのです。観音菩薩には、「自分だけ が悟りをめざすのではなく、同時に他の人々をも一緒に悟りへと導 いてゆく」と言う特徴があります。これを「自利利他円満」と言います。

観音さまには、いろいろな姿があります。一般に良く知られているのは、十一面観音・千手観音・馬頭観音などです。何故このようにいくつもの姿に変えるのか?観音の慈悲は、相手の姿や数に応じ て、 自由自在に救いの手を差し伸べる、ということを象徴している から なのです。

観音さまは慈悲の象徴です。「三人寄れば文殊の智慧」と言う言葉 がありますが、文殊とは文殊菩薩のことです。釈迦三尊という像が ありますが、釈迦の両脇に普賢菩薩・文殊菩薩という二人の菩薩が います。

菩薩とは、悟りをめざしている者すべての総称です。

観音さまの御利益というものは、病気を治してくれたり、商売繁盛 させてくれたり、頭が良くなる、といった、いわゆる現世利益が本当の目的ではないのです。

一応現世利益(苦しみ・悩み・迷い除いて)を与えた後、この迷いの世界を離れて悟りの世界を目指させようというのが、観音菩薩の本当の目的といわれています。

困ったことが起こったら観音さまにお願いしてみては如何でしょう。

蓮如上人の「白骨の御文章」

皆さんも葬儀のときなどに聞き覚えがあると思いますが。蓮如上人の言葉で、人間の儚さを説いた言葉です。明日はわが身か、身につまされるような言葉です。

蓮如上人(浄土真宗)     「白骨の御文章」
      (蓮如上人の撰述した御文の五帖目、第16通「白骨」)

白骨の御文章

それ、人間の浮生(ふしょう)なる相(そう)をつらつら観(かん)ずるに、おほよそはか
なきも
のはこの世の始中終(しちゅうじゅう)、幻(まぼろし)のごとくなる一期(いち
ご)なり。

されば、いまだ万歳(まんざい)の人身(にんじん)を受けたりといふことを聞かず。
一生過ぎ
やすし。今に至りて誰(たれ)か百年の形体(ぎょうたい)を保つべきや。我や先、人や先、今日とも知らず、明日(あす)とも知らず。遅れ先だつ人は本(もと)の雫(しずく)末(すえ)の露よりも繁(しげ)しといへり。されば、朝(あした)には紅顔(こうがん)ありて夕(ゆうべ)には白骨(はっこつ)となれる身なり。
すでに無常の風来(きた)りぬれば、すなはち二つのまなこ
たちまちに閉ぢ、一つの息ながく絶えぬれば、紅顔むなしく変じて桃李(とうり)のよそほひを失ひぬるときは、六親眷属(ろくしんけんぞく)集まりて嘆き悲しめども、さらにその甲斐(かい)あるべからず。さてしもあるべきことならねばとて、野外に送りて夜半(よわ)の煙(けぶり)となしはてぬれば、ただ白骨のみぞ残れり。あはれといふもなかなかおろかなり。されば、人間のはかなきことは老少不定(ろうしょうふじょう)のさかひなれば、誰(たれ)の人も早く後生(ごしょう)の一大事を心にかけて、阿弥陀仏(あみだぶつ)を深く頼みまゐらせて、念仏申すべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。

 

意訳

人間のはかない人生をよくよく考えると、この世の中でおよそはかないものは、あっというまに迎える人生の最期である。いまだかって万年も生きたという話を聞かず、一生は早く過ぎるものである。現在でも百年を生きることは難しい。

自分が先になるか、人が先になるか。今日とも明日とも知れない命で、遅れる人早く亡くなる人は、木の葉の露、雫の数よりも多い。そうであるならば、朝元気であった者が、夕方には死んで骨になるかもしれない。   無常の風が吹いたら、たちまちのうちにまぶたは閉じ、呼吸も停止して、顔色がむなしく変って赤みを失う。そうなれば家族・親戚が集まって歎き悲しむが、蘇生効果はない。さてすべき事をしなければというわけで、遺体を野外に送り、夜中に火葬をして煙となれば、わずかに白骨のみが残るだけである。これはあわれというよりもおろかなことである。ではどうしたらよいかというと、人間のはかない命は老若の順とは限らないので、誰もが早い時期から死後の生の大事を心にかけ、阿弥陀仏に深くおすがりして、念仏すべきである。恐れ多いことよ。恐れ多いことよ。

忘れてならないこと

すべて命のあるものは、この「宇宙の真理」によって生かされているのです。

生きているのではなく、生かされていることを忘れないでください。

皆さん、お盆はどうお過ごしでしたか?年に一度のお盆、二度の彼岸会、亡くなられた御先祖、 の方々を思っていただき、その霊を敬っていただきたいのです。

現在の自分は御両親が在り、その又ご先祖様が在ってこの世に存在するわけです。この組合せが違っていたら現在の自分はこの世に存在しないわけです。

人生を幸せに生きるためには、御両親・ご先祖様を大切にし感謝の気持ちを忘れてはいけま せん。

世間ではよく「仏様にお願いしてはいけない」などと言いますが、それは間違いです。

何か悩んだり問題がおきたときは仏前・墓前で「何か良い智慧を与えてください」と言って、線香やお花をたむけてお願いしてみてください。何か見つかることが多々ありますよ。

常に御両親、御先祖様に対して感謝の気持ちをお忘れなく・・・・・。

誰もが10代さかのぼると1024人の御先祖様が居るのです。

「般若心経」を読んで -6-

「仏説般若波羅蜜多心経」はお釈迦様が説いた「経」なのです。それが「般若波羅多」です。

つまり、お互い傷つけあい、迷い、苦しみ、悩むことの尽きない、私達が住むこの世(此岸)から、完全な悟りの世界、つまりあらゆる煩悩の火が消え去った静寂な世界(彼岸)へ行くために必要な実践行のことが書かれています。

釈迦の教えは、人間としていかに生きるべきかの教えなのです。

「般若心経」を読んで -5-

本文の意味について 

「仏説摩可般若波羅蜜多心経」 (ぶっせつまかはんにゃはらみたしんぎょう)

仏説=仏(釈迦)の説いた教え。

摩可=大きい・非常に・まことに意味深い、と言う意味。梵語のマーハーの音写。

般若=仏陀の会得した正しい智慧。

波羅蜜多=到彼岸(彼岸に至れる)。 梵語のパーラミターの音写。パーラム(彼岸)イター(到達する)の意味。

彼岸とは「悟りの世界」のことで、そこに到達した者こそがブッタとなることが出来るという意味。

「悟りの世界」とは“死すること生きるがごとき境地”を示す。思いわずらいいも消え、苦しみのない静かな世界。パーラミターというのは、悟りの世界に到達するためにしなければならない実践工(修行)のことです。この実践行は全部で六種類あり、それらを六波羅蜜(ろっぱらみつ)、六波羅蜜多(ろっぱらみった)という。

心経=心(梵語のフリダヤを翻訳したもの)  経(梵語スートラで、仏教的には、永遠に貫く教えの綱要、と言った意味。 最も肝要にしてつらぬく教えが「般若心経」であるという事になります。

『般若心経」を読んで -4-

「般若心経」は般若経の真髄と言われています。

玄奘三蔵が天竺から持ち帰った仏教経典群は、数ある仏教経典の中では「般若部」と言われる経典群が主でした。普通は“お経”というと、仏教聖典総てを含めたものと理解しがちですが、もともと仏教聖典には「経・律・論」と三種類あったそうです。

(きょう)=仏教の開祖である釈迦の教え。

(りつ) =僧が守るべき社会生活上の掟。

(ろん) =釈迦の教えに対する解釈や注釈。

以上の三つで、これをまとめて「三蔵経」とか「大蔵経」「一切経」とよんで、その数は五千部を超えると言われるほど多いそうです。

仏教は、紀元前五世紀ごろ、釈迦を開祖として出来た宗教ですが、これらの経典については、すべてのものが一度に出来たものではなく、数百年もかかって徐々に現在の形にまとめられてきたといいます。紀元前後ごろになり、仏教の中にも大きく二つの流れが出てきて、それまでの仏教の立場は、どちらかと言うと出家したお坊さん中心のものであった、教義にも消極的・虚無的な解釈をしていたのです。これらを小乗仏教と名づけて批判するという形で大乗仏教がおこったのです。

その中で最初の大乗経典として出来たのが「般若経」で、そして、それを初めて中国語に訳したのが玄奘三蔵だったというわけです。「般若経」は、それ自体、膨大な経典群でしたが、それらの精髄を取り出し、まとめたのが「般若心経」なのだそうです。

経典は、古代インドの雅語であるサンスクリット語(梵語ともよばれる)と、一種俗語のパーリ語でした。そしてパーリ語の聖典が、インドから南方にある国々に伝えられて上座仏教(小乗仏教)の聖典となったのです。一方、梵語の聖典は大乗仏教、北方仏教の聖典とされ、これらは、主にインドより北の方へ、中国語やチベット語をはじめ、さまざまな国の言葉に翻訳されて、広められたと言います。

こうして、梵語から中国語に翻訳されて日本に伝えられたのが「般若心経」なのです。

 

 

「般若心経」を読んで -3-

「般若心経」は私達に何を語りかけようとしているのでしょうか。「般若心経」世界は広大・深遠という言葉が無意味なほど広く、深い世界です。

たった二六二文字のお経は、私達をさまざまな悩み・迷いから救ってくれるのです。

「なにものにもとらわれず、あるがままの姿で生きて行く素晴らしさ」を会得できるのです。

今を生きる私達にとって、絶対的事実である「死}と言う問題にも、一つの回答を与えてくれる事 でしょう。あなたも「般若心経」を紐解いてみませんか。

「般若心経」を読んで -2-

毎日を苦しみ・悩み・迷いながら、心のふれあいもままならず、個性を埋没させて生きている。

そんな現代人のために、“おおらかに生きるための知恵と方法論”が見つけられる教本がこの般若心経なのです。

この世に人間として生を受け、成長するにしたがい、我々の一人ひとりが、何かを成し遂げようと念願しながらも、知らぬ間に老いてゆくのが人生の姿なのです。

人間としてせっかく生まれさせてもらったのですから、せめてこの世に生きている間に、自分が生きていることの本当の意味を考えて見ましょう。

『般若心経』は現代に生きる途を教えてくれる。

お経というと葬儀や回忌供養のときにだけ、と思っている人が大半ですが。実は、お経は現世に於ける生きる指針を示している教えなのです。たった262文字の中には、計り知れない程の深い人生指針が凝縮されているのです。

三蔵法師がインドから持ち帰り中国語に訳したものです。三蔵法師は「玄奘三蔵」と呼ばれた実在の人物。三蔵法師と言う名前を聞くと、孫悟空たちと一緒に、天竺(インド)までお経を受取りに行った中国のお坊さん。と皆さんが思い、知っていると思います。

「西遊記」はこの大旅行を記録したものです。

「般若心経」を読んで

 花山 勝友著 「絵で読む般若心経」 鞄本実業出版社版より

何回となく般若心経を読んでいますが、毎回新しい発見があります。今回から般若心経を読んだ感想を書きたいと思います。般若心経の本は数冊読んでいますが、誰にでも分かりやすく記載されているこの著を元に御紹介します。

正式には「仏説摩訶般若波羅蜜多心経」と言います。「仏」とはお釈迦様のことです。そのお釈迦様が「説」いた「経」なのです。それが「般若波羅蜜多」心経です。

お互い傷つけあい、迷い、苦しみ、悩むことの尽きない私達の住むこの世(此岸(しがんから、完全な悟りの世界、すなわち、あらゆる煩悩の火が消え去った静寂な世界(彼岸)へ行くために必要な実践行のことが書かれている経なのです。「摩訶」とは、人知も及ばない意味深い教えだと強調した言葉です。

誰も、心の中に傷を持っていたり、悩みを持っているものです、それはこの世に生きている限りは、決してなくならない。ですから、この世に生きている間に「静寂な安らぎの境地」に到達すればよいのです。その知恵と実践論が書かれているのが「般若心経」なのです。

何故か寂しい気分

30年来の友人が、定年して第二の職場に付、5年間活動してきましたが、この六月一杯で退職となります。わざわざ東京から挨拶に来ていただきましたが、何故か寂しい気分です。

本人は、まだまだ元気でやる気十分なのですが。第三の職場の話もあるようですが、今まで一生懸命働いてきたのですから、この辺でゆっくり奥様と老後を過ごすことが出来れば良いと思いますが、現在の日本の社会保障の状況では、そうも出来ないのが現状です。

寂しい国ですね。私は自営ですので定年はありませんが、やはり先々が心配です。経済面や体調面、何時どうなってもおかしくない年齢です。毎日を無事に過ごせることに感謝しながら、前向きに生きて行くように努力して活きたいと思います。

人生、悔いなき生き方などは出来ないと思いますが、出来るだけ少なくして行こうと思います。

悩み解決法

お訪ねしてくる相談者の殆どが、悩みぬいた挙句、相談に来られます。

しかし、自分の口から悩みを発露して、それを聞いてあげることによって、すぐに表情に変化が表れます。もちろん安堵の表情です。そして、いろいろアドバイスをさせて頂きますと納得して、また表情が変わります。お帰りになるときは別人のようです。

悩みは一人で考え込むと、益々大きくなります。聞いてくれる人に話しすると、悩みは相当に軽くなります。一人で抱え込まないでください。簡単なことで解決できることが多いです。

不安な気持ちはわかりますが、どうぞ話をしてください。きっと解決できると思います。

幸せと不幸は

幸せと不幸は表裏一体、ではないでしょうか。今日、幸せを感じても、明日はわからないのです。人生は幸せ〜不幸〜幸せ〜不幸の繰り返しで、振り返ってみて幸せの数が多ければ幸せだったんだナ。と思えるのではないでしょうか。

幸せも、不幸も、諸行無常です。人間の寿命も、人生も諸行無常です。

少しでも幸せを感じる生き方をしたいものです。

ダイエットになったかな

暑くむしむしする日中に、菜園へ出掛けました。雨の後なので茄子苗を植えるためにマルチング(土にビニールをかぶせる)をしてきました。暑いの何の汗だくでタオルで拭き間に合わない状況でした。パンツまで汗ビッショリ、これで幾らか腹もへこんでくれそうかな、などと思いながら作業をしてきました。下着姿で運転し帰ってきました、シャワーを浴び、久しぶりに冷たい稲庭うどんを食べました。これではダイエットにはならないでしょうか。ウエスト94cmを少しでも減らしたいこの頃です。ダイエットって難しいですね。   ふらふら  ま、いいか。

時には大胆に

今日の一言(外山武史さんの言葉より)

ときには大胆に

確かさばかり求めてぐずぐずしている人には大きなことは決してできない。

イギリスの女流作家、 ジョージ・エリオットの言葉。

耳が痛い言葉。というのも僕は、親から「石橋を叩いても渡らない」と言われるほど、 慎重な子どもだったからです。

多少のリスクを背負わなければ、前には進めない。

一歩目を踏み出せずに、悔しい思いをするのは嫌。だから、ときには大胆に行動した いと思います。慎重すぎる方は、一緒にぜひ。        

(外山武史)

なかなか、その一歩が踏み出せないのですよね。頑張ってみましょう。

もっと褒め言葉を

今日の一言を見つけましたので紹介します。先人は良い言葉を残してくれました。

ほめ言葉をケチるな

ほめ言葉をもらえば、それだけで二ヵ月間、幸せに生きられる

『トム・ソーヤの冒険』でお馴染みの作家、マーク・トウェインの言葉。

学生時代、ほめられることが多かった人も、社会人になると人からほめられる機会が少なくなる。その分、ほめられたときは嬉しく感じるものだ。ほめるだけで、人を幸せにできるのなら、もったいぶらない方がいい。

それに、他人をほめれば、いつか自分にも返ってくる。そんな気しません?(外山武史)

人は誰でも、ほめられると嬉しいし元気が出ます。やる気にもなりますね。大人になっても人を褒めることは大事なことではないでしょうか。

本当の「もてなしの心」

 禅語の教え

*喫茶去(きっさこ)   本物のもてなしの心

数ある禅語の中で、一番読んでホッとできるのが、この「喫茶去」ではないでしょうか。

と書かれてています。意味は「お茶を一服いかがですか」「お茶でも召上がれ」という言葉です。「喫茶去」と言って接する心には、貧富や、男女、自他の分別はないのです。

古来、茶道家はこの「喫茶去」の語を茶掛けにして、みずから無心に茶を点てて、貧富貴賎の客を選ばずに施す心を養ってきたようです。

私達は、好きな人や偉い人、見返りを期待できそうな人には丁寧にもてなし、嫌いな人や興味のない人、印象が悪い人にはいい加減な対応をしてしまいがちです。「喫茶去」の心をもって、誰に対しても分け隔てなく、真心から接したいものです。と書かれています。

明日からでも「喫茶去」の心境で人には接しましょう。自分がこの心境で人に接すれば、また、自分も相手から「喫茶去」の待遇を受けるのです。

                 喫茶店    レストラン   バー  ビール  わーい(嬉しい顔)

地獄はあの世のものではない

地獄・極楽の話は御存知でしょう。地獄はあの世のものではないのです。

現世で悩み・苦しんでいることは地獄の苦しみと同じなのです。なぜ人間は悩み苦しむのでしょうか? それは前世からの償いです。人間は誰も前世があります。前世の罪と現世で犯した罪が重なると「宿業の余罪重障にして・・・・」と罪が重なり苦しみ悩が増すのです。

人間世界に生まれた我々はまだ救われる道があります。犬や野犬や虫などに生まれ変わった者はどうにもなりません。人間と生まれた我々に課せられた課題は「償い」です。

人間は前世・過去・現在に犯した罪の償いをしなくてはなりません。償いが完全に実行されることにより、再び転生する事はなくなります。大変難しいことです。

殆どの人間は永遠に輪廻転生を繰り返し来世に再び生まれてくるのです。これが人間です。

生きている内に少しでも「自利利他」の心境で徳を積み生きることが大切です。

妄想

*妄想
なぜ自分の思い通りにならないのか。他人ばかりいい思いをするのはなぜか。
私たちはそんな考えにとらわれがち。でも怒り、嫉妬、不安、憎しみなど心に
生まれる負の感情は、自分の心が勝手に作る「妄想」だと気づけば、人生が
スッと楽になるはず。

「看々臘月尽」(みよみよ ろうげつ つく)

*看々臘月尽(みよみよ ろうげつ つく) 人生は短い

臘月(ろうげつ)は、十二月の別名。看々(みよみよ)は、良く見なさいの意味。

見時通り解釈すれば「もう十二月も終わってしまいますよ。月日の流れの早いことをよく見なさい」ということになります。

「臘月」は、十二月を示すと同時に私達の人生も暗示しています。十二月があっという間に終わるのと同じく、人生もあっという間に終わってしまいますよ、ぼんやり生きず、命 の尽きる時をしっかり見なさい、と論しています。

どんな風に生きても、一生は一生。だらだら過ごしても、目標を達成するために努力しても、時間は同じ速さで流れていきます。人生の終わりに後悔しないためにも、やり残しは作らない。そのためには、やるべき時が今だと思ったら、後回しにしない事です。
「明日やれば」「また今度」と言っているうちは、何時までも実行できません。

慌ただしい年の瀬、この言葉を思い出して「人生の臘月」について考えることは、怠けがちな自分を戒める、良い機会になります。

私たちはつい「次にするか」とか「今日はいいや」等と何かと後回しにすることが多々ありますが、これはやり残しを作る原因ですね。何事も後回しにしないで気が付いたときに即実行することですね。「光陰惜しむべし、時人を待たず」という言葉がありますよ。

人生にピンチヒッターはいない

*他是不有吾 (たはこれわれにあらず) 人生にピンチヒッターはいない

曹洞宗の開祖、道元禅師の修業時代の話で、禅の道を求めて宋代の中国に留学した若き道元は、夏の炎天下で、食事を担当する年老いた典座が、茸を干しているのを見ました。

老典座にはつらそうな仕事なので、道元は思わず「そんなきつい仕事は、使用人に頼めば良いではありませんか」と言いました。老典座の答えは「他は是れ吾にあらず」、他人に任せてのでは自分の修行にならないということです。
道元が気遣って「なぜ、こんな暑い中で苦労されるのですか?」と尋ねると、老典座は「さらに何れの時をかを待たん(今やらずに、いつやるのか)」と答えました。

面倒なこと、気乗りしないことも、今この時にすべきことは後回しにしない。この日、この時がつねに「一大事」だから、決して疎かかにしてはならないことを、この言葉は示しています。

これは、私たちの日常にもあてはまります。注目を集めやすい仕事、目立たない仕事、楽な仕事やきつい仕事など、様々なものがありますが、どんなことでも求められる役割を、一心に勤めあげ、全力を尽くすことが大切です。

一人ひとりの人生には、ピンチヒッターもピンチランナーもいません。それぞれが、一人で歩まなければなりません。やる気がなかなかでないとき、「他は是れ吾にあらず」と、そっと唱えると、元気を分けてもらえる気がします。

人生は一人で歩まなければならない厳しい現実です。と言う事ですね。

 

最近思うこと

最近思うことは、何故か人とお会いすると相手方からいろいろな話を持ちかけられます。

先日も仕事で現場に出向いてスタッフと打合せをして終わると、施主様の奥様が話し掛けてきました。世間話の相手をしたのですが急に「家の息子が独身なので、誰か良いお嫁さんを紹介してくれませんか」と言われてビックリしました。かなり真剣にお嫁さんを探しているようでした。

心がけておきましょうと言って帰ってきました。(笑)息子さんは、29歳。脳外科の放射線技師だ そうです。名乗りを上げたい方は御一報ください。

いろいろな出来事に遭遇しますが、何時も相手を思う気持でいると、このようなことになるような 気がします。

連日相談者来訪

このHP・「みんなが幸せになるブログ」をご覧になり、来訪やメールでの相談がお蔭様で増え感謝しています。19日と21日と来訪いただきました。県内日立市、栃木県真岡市からと遠方よりお尋ね頂きありがとう御座いました。何らかのお役に立てたのではないかと自負しています。

悩みや問題を抱えておられる方は何なりと御一報ください。話すことにより心も気持も晴れるものですよ。一人で抱えていては解決することは出来ません。

皆さんのお役に立てることを常に心がけています。 お待ちしています。

ところで、皆さん春の彼岸です。御先祖様の墓参りはお済ですか。

まだ行ってない方は是非彼岸中に墓参りをしましょう。両親があり、御先祖様がいらっしゃるので現在の自分が存在しているのです。感謝の気持ちを持って墓参してください。

 

目標に向かって

 禅語の教え

*大道無門(だいどう むもん) 目標に向かって前進あるのみ

「大道」とは真理にいたるための道。その大道には門が無い、つまり入り口がないという意味です。大道は仏道の道に即して生きることで、そのための決まった道があるわけではありません。でも無門といい、千差路有りといいながら、安易に無門を通過できるものではありません。入り口のない無門はそのまま難問の関所であり、ただでは通れない無門関です。命を惜しんで修行し、仏意にかなう手形を得てはじめて門を通過したとき、ついに何ものにも縛られず、自由自在な境遇に至れるのだといいます。これは修行者に示した言葉ですが、私たちの人生にも当てはまります。

私たちが目標に向かって進むとき、その道は一本だけとは限りません。人生の道は、一つではなく千差路あり、どの道を行くにしても、しっかり目標を定め、確かな足取りで実践してゆきたいものです。と書かれています。

どの道から入ればいいか悩んで進めなくなってしまうより、実際に行動し、努力するほうがより現実的です。先ずは前進のみです。

先に数字ありきが問題

某車のディーラーの所長さんと話す機会がありました。日頃の仕事に大変お疲れの様子でした。上からは売り上げ増強を押し付けられ、下からは仕事の多さに苦情を言われて中間管理職は大変な苦労をしているようです。
企業は業績を伸ばすために躍起となって部下に対しては唯数字ありきで目先の数字に翻弄されている社員は見ていて可哀想なようです。

数字のみで判断していると、おろそかになるのが人間としての基本ではないでしょうか。業績を 伸ばす事にだけ気をとられていると今回のトヨタのリコール問題のような結果になること請け合 いです。話を聞いていると地獄を見ているようです。餓鬼地獄でしょうね、何も無くて人の吐い た つばや痰、排泄物までも食べて生きようとしている状態。他人はどうでも自分だけ良ければ 何 でもあり。今はこんな時代なのでしょうかね、嘆かわしい時代です。

数字ありきのみに走っていると必ず問題が起こります。人間関係・コミニケーション不足など現代の問題です。笛吹けど誰も踊らず、になってしまうような気がします。もう一度離れた所から冷静に見つめなおしたほうが良いのではないでしょうか。
企業は人なり、お金や業績は後からついて来るもではないですか。

職人冥利

仕事は誤魔化さず、手抜きせず、相手の気持になって施工する。これを守ってきた甲斐があります。昨日12年前に塗替え施工させて頂いたお客様より再塗装の相談がありました。私は忘れていましたが再度当社に相談依頼をしていただき心より感謝の気持で一杯です。

早速お伺いして話をさせて頂き、図面をお借りしてきました。

数軒の訪販業者が何回もこられて困っていたようです。訪販業者の名詞を見せていただきましたが、どちらの業者も知らない業者でした。

12年前の工事を思い出して頂き連絡をして下さいました事に本当に塗装屋冥利・職人冥利をしみじみ噛み締めました。

自分に問いかける

 ●癒しの禅語

*生死事大(しょうじ じだい) 自身に問いかける「生」  六祖壇経

私たちは皆、さまざまな希望を持って生きています。何を目標にするかは人それぞれですが、人生で最も大切なことは結局「どう生きていくべきか」を問い続けることです。

「生とは何か」「死とは何か」「人はいかに生きるべきか」を考えることです。

この世では、生まれたものは必ず死に、出会ったものはいつか別れ、持ったものは失い、作ったものはこわれます。時は矢のように過ぎ去っていきます。すべてが「無常」です。

はたしてこの世に、無常でないものなどあるでしょうか。と書かれています。

禅宗の僧堂では毎日、朝夕の時を告げたり、法要を知らせるために板木(ばんぎ)という法具を打ち鳴らします。皆さんも見たことがおありでしょう。その板木の表面には、この言葉「生死事大」が墨書きされています。今度見かけたらよく見てみてください。

あなたは、与えられた一生をどう生きてゆきますか?もう一度考えてみませんか。

相手の気持を察して

友人と温泉に行きながらの話しで、職場の人間関係、地区内の人間関係・友人との関係と話が 進みました。結局のところ、お互いに長くお付き合いを続けるには、相手の気持を察することが 一番大切ではないかという結論に達しました。お互い心を開いて話が出来ることは一番です。

互いを気遣い相対してゆくことが長くお付き合いが出来るコツ。

自分が、私がと「我」を張っていては何事も上手く行きません。素直な心で聞く耳を持ち話し合え る状況が大切です。現代の日本人は何か忘れているような気がしますが、あなたは如何に思いますか。

 

[ 感謝するのみ

長引く不景気の中生き残りに掛る心労は大変なものです。我々業界も同じく仕事は師走と言うの に激減しています。そんな中で、今月は知人からの紹介が3件あり本当に感謝です。

長く御無沙汰していた知人からの紹介には頭が下がります。3件とも来年に施工することになり ました。今年は、たまたま忙しく(雨のせいですが)気忙しい思いをしています。

これも「徳」のなせる業かと思っています。「人は人の為に生きることが大切なことだ」という教えを思い出します。「困った時はお互い様」の気持を忘れずこれからも生きてゆこうと思いす。

 

自信を持ってやりとげよう

*徳不孤必有隣 (とくは こならず かならずりんあり)
                              自信を持ってやりとげよう  論語

この言葉は、徳のある人は孤立することはない、と言う意味です。

一生懸命学んだことや、苦労して身につけた技能が世間で評価されず、軽んじられるのはつらいものです。自分は間違っていないと思っても、評価されないことに焦るあまり、それまでの主義主張や信念を曲げて妥協してしまうこともあります。

でも、本当に正しいと信じるならば、妥協せずに努力を続けることが必要です。意思堅固に道を求め続けていれば、おのずから理解者は現れ、支持する人も出来ます。
あなたは一人ではなく、支えてくれる人が必ずいます。

ただ自信を持って自分の信念のもとに生きてゆきましょう。

心に響く禅語 その10 心身ともにさっぱりと

禅語 その10

「身心脱落」 (しんしんだつらく) 身心ともにさっぱりと  正法眼蔵(道元)

「脱落」は落ちこぼれとか、離脱する意味ではなく、一切のしがらみから脱し、さっぱりした境地のことです。

道元の著「正法眼蔵」に、如浄禅師が「禅の修行には、焼香も礼拝も念仏も懺悔も読経も不用。ただひたすら坐禅をすることが身心の脱落に通じる」と説いたと言います。

ひたすら坐禅し、身も心も一切の執着を離れた、自由で清々しい境地が「身心脱落」なのです。欲しいもの方に入らない(求不得苦)、自分は他人より損をしていると言った悩みは、他と比べる心と執着から生まれるものです。身心脱落とは、「わたしの身心」「他人の身心」という考え方を含め、一切の執着から離れることを意味します。と説いています。

ここでは「執着心」について説いています。自分にだけ執着しているといろいろな問題が起こってきます。自分中心に物事を考えずに大きな心で捉えることが大切でしょう。

「心のよりどころ」として

多くの皆さんに電話やメールやFAXでのお問い合わせを戴き感謝しています。

つたない私のアドバイスが少しでもお役に立てていることに、この上ない喜びを感じています。

皆さんの「心のよりどころ」として御相談に対応できますように、これからも勉強してまいりたいと心に決めています。

どうぞ、今年の悩みは来年に持ち越さないで御遠慮なく御一報ください。待っています。

もっと政治に関心を持ちましょう

政治に関してはあまり記載したくはありませんが、現在行われている予算案の見直しを見たり聞いたりしていますと、各省庁・公益法人の、あまりの庶民感覚とのズレの大きさに怒り心頭です。国民を騙すような血税の使い方にあなたは、どうお思いになりますか。 ちっ(怒った顔)

我々国民はもっと政治に関心を持とうではありませんか。今までの政治のあり方に大いに疑問を持って見てゆこうではありませんか。現政権よもっと厳しく仕分けして欲しいと思います。

身近な県や市町村の税の使い方も似たり寄ったりではないかと思っています。

心に響く禅語 その9 慎みという美徳

禅語 その9

「和光同塵」 わこう どうじん  慎みという美徳  老子

個性や自己主張をアピールして、自分を立派にみせることが現代流の生き方で、それが主流のようになっています。現代は少しでも他人よりすぐれ、自分の長所を磨き抜きん出ることが評価されているようです。

あからさまな自己主張の時代に失われゆくのが、謹みや謙虚さ、奥ゆかしさなどです。派手な光を放つことはないけど、いぶし銀のような深みのある人、ピリッと鋭い意見をさりげなく言えるような人は少なくなっています。

こんな時代だからこそ、見直したい言葉が「和光同塵」です。老子は「その光を和らげてその塵に同ず」と言いました。「和光」とは自分が勉学、修行によって得た道徳性や知性、才智の輝きを和らげ、顕(あらわ)にしないこと。「同塵」とは塵やゴミに汚れた現実世界に同化すること。聖人であっても、悟りを開いた禅師であっても、その学徳や才智を表面に出さず、俗塵の中にまみれて衆生済度をするという意味です。と記されています。

禅者のようにいかないまでも、私たちにも出来ることはあります。自分の行いを自慢せず、謙虚に奥ゆかしく、困った人や助けを必要としている人たちに、ささやかでも役に立つことをする。そんなところから始めてみましょう。

何か身につまされるような言葉「和光同塵」いい言葉ですね、私もそんなところから始めてみようと思います。

心に響く禅語 その8 本来無一物

禅語 その8

*本来無一物 (ほんらい むいちもつ)    「何もない」ということ。

読んで字のごとく、人間は本来執着する一物もない、何も無い、一切空であり、絶対無であることを意味します。分別・相対的な観念を全くはさまない世界、一切のものから自由自在になった心境を言います。

この時代にこの心境になるには大変なことです。こんな心境に少しでも近づくには、何をすれば良いのか?「法」に従って「無」になることでしょう。悟りの心境でしょうね。

  心に響く禅語 その7 苦しみを乗り越える

禅語 その7  苦しみを乗り越える

*寒時寒殺闍黎 (かんじは しゃりをかんさつし) 苦しみを受けとめる覚悟

難しい言葉ですが、闍黎(しゃり)とは僧の尊称だそうです。

「寒時寒殺闍黎 熱時熱殺闍黎」 (かんじは しゃりをかんさつし ねつじは しゃりをねつさつす)

という禅語です。

この「寒暑」は、寒さや暑さだけのことではなく、心の中の苦悩や煩悩も私達にとっての「寒暑」です。

苦しいとき、辛いとき、悲しいとき、その悩みを避けたり、一時逃れをするのは、寒いときに「寒い」と文句をいい、暑いときには「暑い」と愚痴るのと同じこと。
苦しいときこそ、その悩みを避けるのではなく、ありのままに受けとめる。
つらい事柄に「なりきる」ことによって、人は煩悩苦悩から解放されるという教えです。

辛い事をしっかり受けとめる勇気を持つことが、苦しみを乗り越えるためには必要です。

大変難しいことですが、いろいろと悩み多いこの時世において、これを乗り切るためには自分の現状をしっかり見て受けとめることが大切なのでしょう。八正道にある「正見」(しょうけん)の意味と同じではと私は思います。

坐禅について

*坐禅(ざぜん) 自分の心を見つめて静かに座る。

禅語について記載していますが、禅と言えば坐禅を思い浮かべますが、今回は坐禅について書きました。

坐禅の「坐」の字は土の上に人が向き合い、対話する形から成り立っています。対話するのは、自分ともう一人の別な自分、つまり心の中の自分、魂の自分です。

本来の自分と向き合って自問自答することこそが尊いのです。

自分を知ろうとするほど、嫌な思いをすることもあるかも知れません。でも、そうして人は強くなれるし、他人にも優しくなれるのです。と教えています。

又、座敷の「座」の字は「广」(まだれ)の中に坐と書きます。この、まだれは家・建物を意味します。よって「座敷」は家の中で敷物の上で向かい合って座ると言うことです。

皆さん、坐禅の経験はありますか。

たまには、一人静かに坐禅して自分を見つめることも大切かもしれません。

心に響く禅語 その6 心にわだかまりがない

 *心無罫礙(しんむけいげ)

私達がよく耳にする「般若心経」の一節である。「心無罫礙」とは、心のわだかまりがないこと。私達は心配事があれば心配に心を捉われてしまい、悲しいことがあば、悲しみに心を奪われてしまうようである。そしていつも心のどこかにひっかかりを作って、くよくよ考え込んでいる。その心のさまたげを「罫礙」という言葉で表現している。
「罫」とは魚を捉える網のこと、「礙」とはさまたげを意味し、私達の心が網にひっかかってもつれた状態、私達は心配や悲しみに心を奪われなければいいのだが、実際問題として不可能である。生きている人間である以上悲しみ苦しみはつきまとう。何か心配事があるとそのことが頭から離れない。夜もおちおち眠れない。ひどい場合はノイローゼになったりする。

だから心の「こだわり」「わだかまり」を捨てるように般若心経は教えている。
悲しみは悲しみとして受け止める。苦しみは苦しみとして受け止める。それが、「心無罫礙」の説くところである。

悲しみ、苦しみはだれでも受ける。受けた心のダメージをどのように処理 していくのかが、問題なのである。
自己の宗教心をしっかりと確立している人は、きっと立ち直りは速いと思う。
私達は物事に「こだわりつつ」「こだわらない」心を学ばなければならない。心に「わだかまり」「こだわり」を持たないで生きることは大変難しいことです。

しかし、「わだかまりや」「こだわり」を持っているとすべてに疑心暗鬼となってしまう。 「先入観」や「わだかまり」を出来るだけ持たないように生きることが大切でしょう 。

うつ病について

*鬱病(うつびょう)の話

ある先生の鬱病についての講演を聴いてきました。最近、若い人から中高年にまで多くの鬱病の患者が増えているといいます。現に公務員の中にも増加傾向の話を聞いています。 急に登庁しなくなり電話の連絡もつかなく困っているとの話です。

講演を聴いていると鬱には、いろいろな原因が重なり発生すると言います。人間は誰でも欝病の要素は満ち合わせているといいます。それが何らかの原因で出てきてしまうと言います。
結局は、鬱病の根本的な原因は現代医学においても、はっきりと分からないのが 現状のようです。

病院では専門の先生が、直接患者と直面しカウンセリングを行い、薬を処方しているのが現状のようです。結局、長期にわたり治療するほかないようです。

私のところへも鬱病の相談は多いです。病院でのカウンセリングの内容を聞きますと、先ず「よく寝むれますか」「食事はどうですか」「気分はどうですか」などと日常の状況を聞かれるそうです。何も楽しい話は無いとのことです。

カウンセリングは、相手の心や気持を和らげることではないかと思いますが。

では、家では話も笑いもせず何もしないで部屋に閉じこもり、音楽やテレビを聞いたり見たりしてゴロゴロしている鬱の方が、私のところへ来られますと、ちゃんと話をしますし、笑顔も出ます。なぜなのか分かりません。訪ねてこられたときと、帰るときの顔付きがまったく違ってお帰りになります。このような方は先ず安心です。必ず近いうちに病から開放さ

れます。私自身もビックリしています。

今まで何人もの方が鬱病の相談に見えましたが、全員立ち治っています。私は私なりに、師より教えて頂いた話をするだけですが、この話は、鬱病になる原因を簡単に話すことなのです。
現代の医学者や科学者は絶対信用しないような話ですが、師のところへは病院の先生や有名な病院の看護士さんたちが定期的に通って話を聞きに来ていました。

私のところに来て、急に快方に向かって治ってしまった患者さんに対して、最近は先生が疑問を持ち「何かしてきましたか」と聞くそうです。私は聞かれても「何もしていません」 と答えるように言っていますので患者さんはその通り答えているようです。

このことは、他の病気の方の場合も同じで必ず急に快方に向かってゆくと聞かれるそうです。「何かあるんではないか?」と先生方も思っているのではないでしょうか。実際に何度も先生から問われた人もおります。

人間は宇宙の中の自然の生き物ですから、宇宙の真理の中に生かされているのです。 その真理を知り、その教えに従って行動すれば良いわけで、何も難しいことはありません。

その教えに中に、さまざまな問題の原因が記されているので、それを教えてあげることによって問題は解決するのです。

まだまだ未熟な自分ですが、師の教えを伝えながら少しでも皆さんのために貢献できるようこれからも努力するつもりです。    
いつでもお話を伺いますのでご遠慮なくどうぞ。

心に響く禅語 その5 「吾唯足知」

 禅語 その5

 *知足(たるをしる) 欲しがることをやめてみる 〔遺教経〕

「足るを知る」京都・竜安寺の「吾唯足知(われただたるをしる)」と書かれたつくばい

が有名でしょう。

私達は欲望を無限にふくらましてはならない。これで充分、つまり「ごちそうさま」と言える心のゆとりを持たねばならない。「吾唯知足」は、釈尊が説かれた教えである。
「足ることを知る人は、心は穏やかであり、足ることを知らない人は」心はいつも乱れている」と言われる。

心の平安を求めるのであれば、「吾唯知足」を是非とも理解しなければならない。
具体的には、「ごちそうさま」「もう充分」「もう結構です」の心であろう。食事などでお腹がふくらんだら言えるが、欲しかったものが目の前に山積みになったとき、はたして可能かなとも思う。

「吾唯知足」は現代の日本人が理解出来にくい言葉である。理解出来にくいがゆえに、耳を傾けなければならない。

「貧しい人」とは何も持ってない人ではなく、多くを持ちながら、まだまだ欲しい、と満足できない人のことです。

足るを知り強欲にならないことが大切です。問題や悩みの根本は「欲」です。誰もが欲のない人はいませんが、自分の器に合った欲で満足するべきでしょう。
それには先ず、自分をよく見つめることです。相談者の中にも足るを知らない人が結構いらっしゃいます。

「知足」いい言葉ですね。

千利休(せんのりきゅう)は、茶道の心得として、「家は漏らぬほど、食事は飢えぬほどにて足る事也」と述べました。必要な分を必要なだけ用意し、茶を点ててまず仏に供え、人に差しあげ、施し、最後に自分もいただく「利他」の精神がそのまま自分の幸せであるという。「自利利他」の心が大切です。

人生を生きることも、商売をするにしても、役人でも、国家でも、すべての人間が我欲を張らずに「自利利他」の精神で行っていけば争いや、問題も起こさずにすむのでしょう。

心に響く禅の言葉 その4 「夢」

禅語 その4

*夢   夢ははかないものか?  (金剛経)

仏教では「いろいは歌」の「色は匂えど散りぬるを」(美しく色香漂う花も、やがて散ってしまう」に表されるように、世の中全ての現象は、実体のない仮の姿で、夢幻のように何ひとつとして同じ状態で続くものはないと言う諸行無常の思想があります。

その実体のない仮の姿、仮の世を、私たちは真実だと思い、永遠に続くものと思って執着していますが、それははかない夢幻、泡影のようなものだと論するのが、次の言葉です。

一切有為法     如夢幻泡影     如露亦如雷          応作如是観
(いっさいのういのほう)  (むげんほうようのごとし)  (つゆのごとしまたかみなりのごとし)  (またかくのごとしかんをなすべし)

この世の一切の事象は、夢幻のようで、泡のようで、影のようだ。露のようで雷のようでもある。迷いの多い生活から目覚めるためにも、この世のすべてを夢と知れ。

禅語としては、沢庵和尚(たくわんおしょう)の辞世の「夢」が有名です。沢庵は「夢」の字 を大書し、横に「是(ぜ)もまた夢、弥勒(みろく)もまた夢、観音もまた夢、仏云く(いわく)、正に是(かく)のごとき観を作(な)すべし」と書いた後、亡くなったといわれます。

つまり沢庵は、一切の事柄は夢であり、すべてに執着から脱却した状態にあると言ったのです。沢庵はこの世の一切のものが仮の姿であることを悟った境地で「夢」と書きました。

悟りの世界に行ったとき、人はもう儚い夢を見ることもなく、現象の仮の姿に惑わされたり、酔いしれたりすることもないのでしょう。そんな安らかな心境を、「夢」の一字に表したのかもしれません。と記されています。

沢庵和尚のような安らかな心境になるにはやはり、悟りの世界は死後の世界なのですね。
私たちは日頃から、この仮の状態の中で執着し迷い悩んでいるのですね。仮の世界なのにものごとに執着するから問題が起こるのでしょう。すべての事柄は諸行無常であることを、あらためて認識しました。

心に響く禅の言葉 その3 「放下著」

禅語 その3

*放下著(ほうげじゃく) 「投げ捨てて」自由になる。(六祖壇経)

無心になることは、難しいことです。修行者であっても「無心」の境地にはなかなか到達出来ないようです。無心になろう、無心になろうと思えば思うほど、心のモヤモヤが広がるようです。修行者であっても、少し道理がわかってくると、悟りの境地に迷うと言います。ましてや、私たち凡人が日々の悩みを捨て去るのは、とても難しいことです。
でも、捨て去ろうと頑張るほど、悩みや辛さに絡みとられることもあります。

壁にぶつかったときこそ、あえて「放下著(投げ捨てる)」の気持で向き合っていきましょう。

と、記されています。難しいことですね。 (-_-;)

心に響く禅言 その2 「却下照顧」

禅語 その2

*脚下照顧(きゃっかしょうこ)  わが身、わが心を見つめる。

文字どおり「自分の足下を良く見つめなさい」ということです。

足下を見ることは、わが身、わが心を見つめることでもあります。足は人間の体を支える根幹です。足下がぐらつくと、安心して立つことができません。身体が安定しないばかりでなく、心まで不安定になってしまいます。

足下がぐらつかないよう、土台を固めるには、常にわが身の行いを振り返ることです。いま思っていることを振り返り、毎日使っている言葉を顧みる。無意識のうちに他人を傷つけてしまう言葉の過ち、わだかまる恨みや怒りなど、自分の中にあるマイナス部分を認め、反省する気持を持つことです。
禅寺の玄関にはよく「脚下照顧」と書いた看板があります。これは「上がる前によく自分の足下を見なさい」という意味で、脱いだ履物をきちんとそろえましたか?という注意書きです。
しかしこの言葉は、たんに履物の脱ぎ方を注意しているわけではありません。「形は心の表れ」と言いますが、心が乱れていると、何ごともきれいに整えることが難しくなるものです。
玄関を見ればその家の状態がわかると言うほど、靴の脱ぎ方ひとつにも、心のあり方が見えると言われます。

心が余裕を失いそうなときこそ、立ち止まって足下を見つめたいものです。

ドキッとしますが、早く玄関に行ってみて下さい。皆さんいまから「脚下照顧」を実践してみては如何でしょうか。心が安定し余裕が出てくること請け合いです。

心に響く禅言 「日々是好日」

やはり人間の生き方の教えは仏語(禅語)にあるようです。身近な言葉で普段気付かないで使ったり聞いたりする言葉の多くは仏語(禅語)の言葉が多いようです。
これから禅語の紹介をしてゆきたいと思います。

 

禅語その1

*日々是好日(にちにちこれこうじつ)  雲門禅師

私たちがよく目にしたり聞いたりする言葉です。これも禅の言葉です。

文字どおりに解釈すれば「毎日が平安で、無事である」の意味ですが、明日と言う日は二度とない。この一瞬を大事にせよ」ということを教え示した言葉が「日々是好日」なのです。

朝起きて寝るまで、今日という日はかけがえのない一日です。この一日を全身全霊で生きることができれば、それこそが「日々是好日」となるのです。

平々凡々、何事もさわりのない穏やかな状態だけが「日々是好日」ではありません。

好日は願って得られるものではなく、待ってかなえられるものでもない。私たち自身の生き方によって、日々の好日が得られるのです。と教えています。

なかなか今日一日を全身全霊で生きることは、我々凡人にとっては難しいことですが、そんな気持で生きることが大切なのではないでしょうか。

宮沢賢治の母親のことば

「ひとというものは、ひとのために何かしてあげるためにうまれてきたのス」

(宮沢賢治の母、イチ)

幼い宮沢賢治と添い寝するとき、いつも語りかけていたという、このことばほど、

彼を象徴するものはない。人のために自分は何ができるのか。そう問い続けた

賢治は昭和8(1933)年9月21日37歳の生涯を終えた。

「私には私の望みや願ひがどんなものかわからない」と言って突如東京へ出奔

する。これはそのころ親類にあてた手紙の中にある。

さがし続けたものを、賢治は見つけることができたのだろうか。わからない。

ただ、彼の最後のことばは、「ああ、いいきもちだ」−だった、という。

と新聞のコラム「次代への名言」に記載されていました。考えると、かの有名な

「雨ニモマケズ」はこの母親の言葉が原点ではないだろうかと私は思います。

母親の影響は凄いものですね、すばらしい母親像ではないでしょうか。

 

 

利は不利に通ずる

尊徳のちょいといい話 

利は不利に通ずる  尊徳の名言より

賭けをして負けるのは、勝とうとすることの変化である。

商人が不利を招くのは、巨利をむさぶることの変化である。

脱税や滞納は、しぼりとることの変化である。

*賭けで負けることは勝とうとする心の裏側であり、勝つ目的のために理性を失うからです。賭け捨ての覚悟で余財を生み出す正業に励むことです。

商人は巨利をむさぼらず、買主の利益を計れば、何の不利もありはしない。

脱税や滞納は、国の政策の不備不足が人民の反発、不満を生むのです。良き政治をしたならば、何の脱税、滞納もありはしない。と言っています。

現在の政治家にも聞かせてやりたいような名言とは思いませんか。いつの世も真理は一つなのです。時代が変わろうとも真理は永遠なり。

 

強運も努力しだい  尊徳

 尊徳のちょいといい話

強運は毎日の勤労努力なくして開かれない   尊徳

毎日毎日の努力が無ければ運はこちらへ向いては来ない。毎日の勤労努力で、米麦も茄子、大根も実り、米を飯に変えて犬猫も人も喜ぶ。農民にこの道理を教え実行した尊徳です。

政治家・教育者・役人すべてに言えることですが、上に立つ者に使命感がなく、職責を果たそうとしなければ、世の中狂うのは当然です。国家経済の破綻も学校崩壊もその結果なのです。

「我」を捨てて、広く皆のために生きることは、いま、すべての人に求められているのです。「我」にとらわれていると、さまざまな問題が起こり、手違いが生じ、正しいこともまた水泡に帰すと尊徳は教えています。

善行善果・悪業悪果。

「いい種も悪い種もすべて自分が蒔いたもの」 尊徳

 

米蒔けば  米の草生え  米の花咲きつつ  米実る世の中(尊徳道歌選二)

 と詠んでいます。仏の道理の教え「因・縁・果」を説いた歌です。

 

因というのは、たとえば、蒔いた種のことだ。これを耕作培養するのが縁だ。

種を蒔いた因と、培養した縁とによって秋の実りを得る。これを果というのだ。

と言っています。(夜八八)

 

すべての果(結果)は自分が蒔いた種により起こるものであると言っています。

 

「悪業悪果」「善行善果」すべてに通じることではないでしょうか。

「我」の災い

 「我」「欲」がもたらすもの

*「吉凶好悪(きっきょう こうお)」は全て「我」から生ずる。

人は常に自分本位に考えます。自己主張をし、自分を守る意欲が無ければ、自己を確立することは出来ません。しかし、いつまでも自我を通せば周囲や職場に抵抗や摩擦を生じて、必ず孤立してしまうものです。未熟な大人と言われるのです。ふらふら  もうやだ〜(悲しい顔)

コミュニケーションの上手な人は、「我」をいかに低く押さえるかに努力しています。

「我」を限りなく「無」に近くすることが、結果として自分も周囲も救うことになる。

心を「我」から切り離して、恩を受けた「他」や周囲全体に心を向けると、不思議に道は開け、強運に導かれる。  がく〜(落胆した顔)  わーい(嬉しい顔)

多くの人間関係、職場、会社のトラブル、原因のほとんどが「我」と「我欲」です。

あまり「我」を張らず、「欲」も程ほどにしましょう。

「躾」について

きちんと子供を躾(しつけ)けてますか。

「躾」(しつけ)について

昨今、「躾」について雑誌や新聞紙面などでよく見かけられますが、今なぜ躾なのでしょう。これは現在の世相によるものと思われます。

事件や犯罪が低年齢化してさまざまな問題が報道されています。今日のサンケイ新聞にも各人の意見として「躾」について掲載されていました。

「躾」とは、身に美しいと書きます。本来は身も心も正しく美しくあれ。ということ

でしょう。この「躾」は誰がすることでしょうか? 当然親が子供にすることです。

昔からの言葉に「三つ子の魂百までも」とありますがまさにその通りです。

まず、親が子供に対する「躾」の一番は、人々に対する「挨拶」、全てに対する感謝の言葉「有難う」ではないでしょうか。

「挨拶」は人と人とのコミュニケーションの始まりです。親を始め近所の人、先生、

友人等々挨拶無しでは先に進めません。

「ありがとう」は感謝の心を表しています。世の中一人では生きてゆくことは出来ま

せん。何事にも感謝の気持ちを持つことが大切なのです。

現実はどうでしょうか?挨拶もできない、「ありがとう」も言えない子供が殆どです。

子供を心身ともに健やかに美しく育てようとしたら、親は何よりも「躾」をしっかり

すべきではないでしょうか。それが世の中から子供の事件や犯罪を未然に防ぐこと

につながり、明るくなるのです。

躾は各家庭でするもので学校の先生が教えるものではありません。学校へ行く以前

の問題です。昔から子供を見れば親が分かると言われています。あなたは自信がありますか?

親が率先して「躾」の手本となりえることが大切です。

教育の課題

「徳育の大切さ」 「家庭のしつけを見直そう」のタイトルを「主張」の欄に見つけ

ました。(原文掲載します)

文部科学省の有識者会議「子供の徳育に関する懇談会」(鳥居泰彦座長)が報告書の原案をまとめた。乳幼児期から徳育の重要性を指摘した内容で、近く提言が出される。

家庭の役割を再認識してほしい。

いじめ問題や少年非行の低年齢化などで規範意識や公共心を養う徳育の充実が求められ、文科省は昨年8月に懇談会を発足させて議論を進めてきた。

報告書原案の中では、まず「社会全般で『徳』が見失われてきている」と危機感を訴

えた。誠実さや勤勉さ、思いやりなど世代を超えて伝えられてきたものが、ここ数十

年の間に急速に失われてきたとしている。これは多くの人が感じていることだ。

インターネットの普及など子供たちをめぐる環境も変わっている。社会の教育力低下が懸念されているいま、学校教育だけではなく、家庭、地域が連携した対策が必要なのは当然だ。懇談会では子供の年齢、発達段階に応じ、徳育で重視すべき課題を取り上げてきた。家庭教育にも踏み込み、乳幼児期は親や他人との愛情、信頼関係を形成する重要な時期だと認識を示した。

また幼児期は周囲の人や自然とのかかわり、体験を繰り返し事で道徳性や社会性が芽生えるとし、遊びをはじめ子供同士の体験活動を充実させるよう求めた。

家庭、地域、学校の役割にも言及し、家庭は「子育ての基盤であり人生の基盤」と強調した。「家庭でルールを作り、愛情をもって接し基本的なしつけを行う」など「10 の提言」を盛り込む。

徳育や家庭への提言に対し、これまで押しつけなどの反発もあった。政府の教育再生会議が検討した「親学」の提言や徳育の教科化が見送られた例もある。

だが原案が「徳育では家庭の役割が何より大きい」と指摘しているように、報告書に

含まれる基本的なしつけは、言われる前に親が率先してなすべきことである。

聖地指導や家庭教育の専門家からは、家庭のしつけや学校の指導に厳しさがなくなってきた現状を懸念する声を度々聞く。家族間の事件や児童虐待も絶えない。

次の大人となる子供たちの徳育充実は緊急課題だ。教育力の低下には一刻も早く歯止めをかけねばならない。最終報告書には親や教師らの耳に痛い提言も躊躇せず、盛り込んでもらいたい。

以上のように掲載されていました。少し遅きに感じますがやっと腰を上げてきたこと

に期待しようと思います。教育は国家を左右する最も重要な問題です。なぜならば、

今教育が始まっても20年以上経過しないと教育の結果は現れてこないのです。

事件の低年齢化や社会性の欠如、道徳の欠如は数十年間続いてきた教育の結果です。

各個人が愛情と感謝の心で接すれば世の中は上手くゆくのです。現代のように自分さえ良ければ他人はどうでも良い。こんな時代のしたのは政府であり文部科学省の人達ではないでしょうか。一刻も早く提言書の実行を期待するものです。

人生哲学を持つ

「人生哲学」を持つ

古今東西を通じて成功した人たちは、一貫した人生哲学を持っていました。それは因果論を信念として持っていたのです。

種を蒔けば転地の恵みを受けて芽が出、花が咲き、実がなる。この自然の原因と結果の因果関係が自然のすべてのものに当てはまることを、成功者たちは体験とさまざまな教えの中から知っていたのです。

「成功した人はすべて、自分は因果論者であることを認めている」ラルフ・エマーソン

「報徳」は尊徳の思いと行動を言葉に表したもので、報徳の思想はすべての人、すべての物を生かす意味で、人生の成功哲学と言える。

人は百年も現役で生きることは出来ません。命の限界を知って努力することが、強運を開く人間の成功法則となるのです。

モチベーションを高める

自分をさらに進展させるにはどうすればよいでしょうか?

全てに言える事は、常に自分の仕事や行動に疑問を持つことではないでしょうか。

疑問を持つことにより創意工夫が生まれてより良い方法が見つけられるからです。

人と同じ事やマニアル通りの事だけに捕らわれていると進展はありません。

常によりよい方法を考えながら行動することが自分のモチベーションを高める方法

ではないでしょうか。

自分に満足することなく前向きな創意工夫が大切です。